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・徳島県。中央構造線を挟んで、北に讃岐山脈、南に剣山を主峰とする剣山地が東西に連なり、県域の八十パーセントが山地に占められている(徳島県の名の由来―天正年間に蜂須賀家正が猪山(徳島市)に城を構えたところから始まり、城を中心に吉野川と園瀬川が作った三角州の一部で、小流が多く、、その間に島も多い、徳島の地名はこの島の多い地形を表したもので徳は美称である。)剣山地の北斜面は吉野川流域に、南斜面は勝浦・那賀画川の流域に属している。主な平地は、吉野川流域や勝浦川・那賀川の下流部に展開する沖積平野で県内の主要居住地域であり、生産地域でもある。吉野川は中央構造線に沿って東流し、紀伊水道に注いでおり、“四国三郎”とも別称される、四国第一の大河である。
徳島県の自然景観は“四国三郎”ともいわれる吉野川を筆頭に多くの河川が東西方向に延び、吉野川の北側には香川県との境界をなす讃岐山脈が横たわり、その南麓を中央構造線が走っている。見どころとして主だったところでは、黄金磯・眉山公園からの徳島市街を眺める風景・渦潮・梨畑・阿波の土柱・土釜・大歩危・平家落人の面影を偲ばせる山村・剣山・水床湾・大浜海岸など見どころ多々あります。祭りは何といっても阿波踊りや郷土芸能や行事があります
・旧徳島城表後殿庭園。徳島城の遺構で、市民に千秋閣庭園として親しまれている藩主居館の庭。慶長二十年、藩主至鎮が大坂夏の陣の軍功で淡路一国八万石余を加増された折、その記念に築造したといわれている。枯山水と池泉回遊式を巧みに組み合わせた庭園で、桃山期から江戸初期にかけての城郭庭園として代表的な名園であり、国の名勝に指定されている。昭和二十年の戦災で、千秋閣の建物と樹木は消失してしまった。しかし、阿波国特産の青石を使った豪華な石組はそのまま残り、名園の面影を今に伝えている。とくに雨に濡れた青石の美しさは格別である。また枯山水にかかる、途中から折れた巨大な青石は、毒を盛られ憤慨した至鎮が踏み割ったと伝えられ、義伝公踏み割石として有名です
・八多五滝。市域南西端近くの山中にあり、勝浦川の支流、八多川に掛かる滝で、雌鴨の滝・雄鴨の滝・御来迎の滝・布引の滝があり、一番奥に蔵王の滝がある。なかでも蔵王の滝が一番見事で、滝の下流には、渓谷美を誇る畳石美を畳石峡の景観がある。近くには犬飼の農村舞台(人形浄瑠璃の野外舞台)がある。また鳴滝、七釜にも足を伸ばしては。
・阿波の人形浄瑠璃。阿波の人形芝居は、江戸時代から藩主の手厚い保護をうけて繁栄し、大正期の中頃まで民衆娯楽として流行した。人形浄瑠璃もいわゆる旦那芸よして継承され、県内いたるところに人形芝居や人形頭が残されている
・藍住町歴史館・藍の館。藍住町一帯は、江戸時代から明治期にかけて、阿波藍の代表的な生産地であった。現在も壮大な白壁の藍師屋敷をあちこちで見ることが出来る。昭和六二年、大藍師であった奥村家の一一代当主から、一三棟に及ぶ屋敷の建物と一三万点という膨大な奥村家の文書が町に寄贈されたのを機に、これらと合わせて別に新しく資料館を建て、平成元年に開館した展示品は阿波藍の栽培から加工までの全プロセス、それに使われる栽培用具・収穫用具・藍玉製造用具から流通関係資料まで、奥村家に伝えられた文書や道具類を中心に、周辺の藍作農家が使用していたものなどが紹介されている。なかでも町で長く保管していた阿波藍栽培加工用具九三点は、国の重要文化財に指定された貴重なものです。なお、寄贈された奥村家住宅は県の文化財に指定されている。
・鳴 門。古くから豪壮な景観で知らる。「鳴門の渦」をはじめ、鳴門公園一帯の丘陸林地と海岸及び点在する島々が、「鳴門」として国の名勝に指定されている。県の代表的な景勝地であり、瀬戸内海国立公園にも指定されている。鳴門の渦潮は「一潮に月引き落とす鳴門かな」とか「疾風追へども及ばず」などと表現されて、鳴門海峡の潮流の速さと大渦小渦の壮観さが古くから人々に知られている。鳴門海峡は大毛島東端の孫崎と淡路島南西端の門埼との間約一・三㌔の狭い海峡で、潮の干満によって瀬戸内海と紀伊水道の水位に落差ができ、通常でも時速一三~一五㌔、春と秋の大潮の時には実に二〇㌔という流速で海水が流れる。海峡には大小無数の暗礁があり、その為大小無数の渦ができる。渦の最大は長経二〇㍍以上に達するものもあり、その壮観さは筆舌につきます。その後昭和六〇年六月に大鳴門橋が開通し、鳴門の渦潮をまたいで四国と淡路島が開通し、さらに、平成一〇年四月に淡路島と神戸市垂水区との間を結ぶ明石海峡大橋が開通し、本州とつながった。
・大鳴門橋。渦潮で有名な鳴門海峡を渡る中央支間長876mの吊橋です。道路と鉄道の2階層
・阿波踊り。 8月12日~世界にもその名をしられた徳島の夏祭り、踊らにゃソンソンの阿波踊り、お囃子が響き、リズムに踊り子や見物客も酔いしれる400年の歴史を有する夏祭り。
・祖谷渓。(いやだに/いやけい)徳島県三好市に位置するV字谷の続く渓谷・名物の祖谷そばは有名
・雨乞いの滝・神山町鮎喰川の支流にかかる滝で「日本の滝百選」の一つ。雄滝と雌滝からなる。雌滝は四五㍍三段になって上空の樹の間から継続して落ち、雄滝は真っすぐ下に流れその名の如く勇壮な景観を見せている。四季を通じ水量も多く、とくに途中のうぐいす滝・不動滝・地獄淵・もみじ滝・観音滝とともに秋の紅葉期が一段と見事です。
・阿波の土柱。阿波町北山、土柱は大気や水などによって地表が浸食されて出来たもので、生成の条件としては、まず土壌が軟弱であること、さらに浸食が急速におこなわれなければならないことが必要である。阿波の土柱は、これらの条件を満たして生成された奇勝で、町の西部に連なる千帽子山・高歩頂山・円山の五明谷に沿って六か所の景観が見られ、それぞれ波濤嶽・橘嶽・莚嶽・不老嶽・灯籠嶽・扇子嶽と命名されている、とくに波濤嶽は景観に優れている。昭和九年に国の天然記念物に指定されている。
・土釜。一字村の貞光川本流にある奇勝で、両岸にそそり立つ岩壁に貞光川がわずか二㍍余に狭められ、水流が七㍍余の滝となり轟音をあげて落下している。滝壺は狭い釜状をなし、落下した水が水煙をあげて渦巻き、さらに下流に二の釜・三の釜をつくって流れ下る。県の天然記念物に指定されており、阿波国で名勝といえば江戸時代から“鳴滝・土釜”と併称されてきた。鳴滝はここから下流約八〇〇㍍の貞光町にある。鳴滝・貞光川西岸に掛かる三段の滝。第一段は落差約四十㍍、第二段は二十五㍍、第三段が二十㍍ある滝
・祖谷渓。池田町松尾、剣山に源を発する祖谷川の下流部に発達した渓谷。四国山脈を横断すえるため両岸がそば立ち、数十㍍から数百㍍の断崖絶壁をつくりだしており、日本三大秘境の一つにも数えられている。ことに、谷底から絶壁の頂まで紅葉に埋め尽くされる秋が見事で、上流に粗野温泉があります。
・大歩危・小歩危。(おおぼけ・こぼけ)山城町吉野川。吉野川が高知県から徳島県に入るところで北に向きを変える、石鎚山脈を横断するとそこに出来た深い渓谷が大歩危・小歩危で、両岸には一千㍍前後の山地がつづき、昔は西岸の山腹に曲がりくねった険しい小路が通じていただけで、交通は極めて危険であった、谷の両側が迫り、切り立った崖のあるところえを一般に“ホケ”というが「崩壊」という字が当てられている。大歩危は大股で歩けば危険、小歩危は小股で歩いても危険であるというところから、この字がかかれるようになったというが、現在では国道32号線が通じ四国縦断の最短路となっている。両岸にはツツジ・深緑・紅葉・雪とそれぞれに移り変わる四季の風情があり、楽しめる。
・祖谷のかずら橋。野性のシラクチカズラで編んだつり橋で、日本三奇橋の一つで三年に一度架け替える。かっては秘境の名をほしいままにした祖谷の名残をとどめる象徴的な橋です。かつて平家の残党が敵に攻められたとき、この橋を切り落として追っ手を通れないようにした、との言い伝えが残っている。橋は長さ約四五㍍、幅二㍍、水面からの高さ約十五㍍のつり橋でかっては祖谷川にはこうした吊り橋が何か所にも渡されていたが現在では善徳と今久保の両地区をつなぐこの橋一本だけが残っている。現在は観光的な意味合いが強く年間五〇万人もの観光客が訪れる。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
・橘湾。阿南市東部、室戸阿南河岸国定公園に含まれる景勝地。南は東に椿半島、北は大潟の海岸に挟まれた出入りの多い湾で、東西および南北ともほぼ四㌔。湾内には、小勝島・高島・長島・鵜渡島・ウルメ島・姥島・弁天島など大小の島々が散在し、一幅の墨絵にも似た景勝は“阿波の松島”と称されています。「万葉集」にも詠まれた阿波八景の第一位にランクされる景勝地です。・津峯公園。阿南市津乃峰町、津峯神社のある津峰山一帯が園地で、室戸阿南海岸国定公園をなす景勝地。中腹には陣ヶ丸公園がある、この公園は長曾我部元親が富岡城の新開氏を攻めた折、陣屋を設けたところともいわれている。また園地には古くから椀貸し伝説をもつ家具の岩屋などの窟群があり、これを結んで陣ヶ丸に抜ける遊歩道整備されている。山頂から橘湾が見渡せ、その景観は素晴らしい。那須川に天霧の滝や、歩危興・白瀬峡・高の瀬峡など渓谷美を楽しめるところが多くあります。
・大釜の滝。木沢村、釜ゲ渓谷の入口付近にあるこの滝は「日本の滝百選」の一つに数えられる四国屈指の名爆で両岸百㍍を越える岩壁がそそり立つ中、約二十㍍の高さから深さ約一五㍍の広々とした淵n清流が落下するさまはまさに圧巻です。秘境ムード満点の景勝美を見せています。
香 川 県
香川県。「万葉集」「玉藻よし讃岐の国は国柄か、見れども飽きぬ・・・」と歌われているように、自然景観は素晴らしい。全体的に標高はさほどないが“讃岐富士”の愛称をもつ山容の美しい飯野山、剣を突きたてたような、奇峰の五剣山、台地上の屋島などの山々。満濃池に代表される山間部・平野部をとわず、いたるところにある大小無数のため池。さらに、瀬戸内海沿岸部の花崗岩の白砂青松の海浜。大きさのわりに高い山をもつ島々は、段々畑と松の緑に覆われ、波静かな瀬戸内の紺碧の海と調和して美しい。また、すでに瀬戸内海の自然景観のなかに溶け込んでしまった瀬戸大橋の存在も香川県の大きな観光資源となっている。観光地としても全国的によく知られているのは、金比羅宮、旧金比羅大芝居のある琴平町、源平合戦の屋島、寒霞渓がある小豆島、砂に寛永通宝の銭形が描かれた琴弾公園(観音寺市)などだが、その他に玉藻公園、栗林公園(高松市)石垣の高さ日本一の丸亀城など例をあげればきりがない。真言宗開祖の空海は讃岐の生まれで空海三大霊場の一つ善通寺など、空海関係の事績も数多い。また香川県には四国八十八か所の番所である、雲辺寺、大窪寺があり、こうした史跡、寺院めぐりも捨てがたい旅の魅力です。歴史的遺産に恵まれた香川県には郷土色豊かな年中行事も数多く残されています。
高松市。四国の表玄関として交通上重要な位置を占める県都高松市、松平氏一二万石の城下町として発展した古い街です。今では東の屋島、西の五色台をはじめ高松城跡・栗林公園などの観光資源に恵まれた、四国の代表的観光都市のひとつとなっている。瀬戸内海に浮かぶ小豆島は「二十四の瞳」の舞台として知られている。寒霞渓をはじめ、銚子渓・美しの原高原などの見どころが多く、オリーブの梢をわたるそよ風が旅情をそそります。
・高松城跡(玉藻公園)天正一五年讃岐十七万石の領主に任じられた生駒親正が豊臣秀吉の軍師・黒田孝高の設計で築城させた水城の跡。掘割は海につながり、水門を設けてつねに水面が一定になるように保たれていた、その姿は“讃岐さぬきの高松さまの城が見えます波の上”などといった俗謡に残されています。徳川将軍から四国・中国の任に命じられた松平氏が一一代・二二八年間伝えて明治維新に及ぶ。現在は玉藻公園として整備されているが、天守閣跡や石垣、堀などが遺構として残って国の指定の史跡になっている。
・栗林公園。高松市に位置し国の特別名勝に指定されている庭園の中で最大の広さをもつ公園、紫雲山を背景に6つの池と13の築山を巧みに配し江戸時代初期の回遊式大名庭園として知られている。高松駅の南約二㌔、紫雲山の東麓にある。名庭と知られ、国の特別名勝に指定されている。洋式の北庭と、小堀遠州流の粋を集めて純日本式の南庭とに分かれている。歴史あ古く、室町末期から江戸初期のころ、土地の豪族佐藤道益の別邸として開かれ、寛永のはじめ、高松城主生駒氏の別荘庭園に整備され、その後松平氏の高松入封後はより手を加えられ五代頼恭の江戸中期に、ほぼ現在の形が整えられた。映画のロケ地にも多く使われている(男は辛いよ寅次郎の縁談」「春の雪」等。
・屋島。高松市の北東部、瀬戸内海に突き出た溶岩台地で世界的にも珍しい古銅輝石安山岩からなっている。国の天然記念物に指定されている。全島マツに覆われ、屋根型をした平坦な山頂は、南嶺と北嶺に分かれている。西麓には珍しいアッケシソウの自生が見られる。古くから瀬戸内海交通の要とされたところで、軍事上の拠点として度々利用された。南嶺が屋島観光の中心となっている。また東に壇ノ浦古戦場や五剣山の眺望、北嶺からは小豆島をはじめ備讃瀬戸の島々が天候がよければ岡山の鷲羽山などが望見できる。
・女木島。(鬼ヶ島)桃太郎伝説の鬼ヶ島はこの島であるともいわれている。東西約一㌔、面積二・六五平方キロの細長い島で海岸線の延長は約八・九キロ。主として花崗岩からなり、最高峰鷲ヶ峰は標高一八三㍍、山頂付近に人口の大洞窟があり内部を見学できる。昔の石採り場の跡とか、海賊の住み家であったなどといわれるが、どのような目的で掘られてかははっきりしない。ともあれ“桃太郎の鬼退治の洞窟”として訪れる観光客も多い。
・寒霞渓。香川県小豆島にある国指定の名勝の渓谷で、大渓谷と海を一望できる景勝地である。日本三大渓谷美、日本三大奇勝、日本百景等に選ばれている。新緑や紅葉は見ものです
・エンジェルロード(天使の散歩道)小豆島で日2回、干潮時に海の中から現れる砂の道。大切な人と手をつないで渡ると、砂洲の真ん中で天使が舞い降り願いを叶えてくれるというロマンチックな場所「恋人の聖地」と知られている。
・孔雀園。池田町蒲生、池田湾に突き出た飛岬にある。約三千羽の孔雀が放し飼いされている。一時間ごとに行われる孔雀の大飛行は壮観です、美しいメロディーにのって乱舞する姿は、周囲の青い海にマッチして、ファンタジックなおとぎの世界を思わせます。小豆島の観光ポイントの一つになっています。
・二十四の瞳映画村。旧田の浦分教場は、明治三十五年に開校。のちに壺井栄の小説「二十四の瞳」の舞台となくた“岬の分教場”のモデルとなり一躍有名になった。今も当時の面影そのままに大切に保存されている。その近くに映画「二十四の瞳」に使われた大正・昭和初期の分教場や村の家並みなど、ロケ用オープンセットが一万平方㍍の広大な敷地に映画村としてそっくり残されています。
・瀬戸大橋。昭和五十三年十月の着工以来、九年半の歳月をかけ、同六三年四月に開通。上層部を高速道路、下層部を高速電車が走る。二階建て構造の世界でも例のない長大橋で、わが国の橋梁技術の粋を結集して建設された。全長九三六八㍍。四国と本州を結ぶ新しい玄関として、四国の活性化に大きく貢献している。瀬戸大橋記念公園にも立ち寄ってみましょう。
・丸亀市・県の中央部やや西寄に位置し、北は瀬戸内海に面し開けている。市域は中央部を北流する土器川と西部を流れる金具川のデルタ地帯にかけて広がり、北に広島・本島をはじめてする塩飽諸島を含んでいる。江戸時代の後期には、丸亀港が金比羅宮参拝の上陸地として賑わい大坂とを結ぶ定期の日参船が通っていた。今も港の近くに夜間の船舶の道しるべとして、江戸時代の豪商塩原太助の寄進によって造立された常夜灯“太助灯籠”が残っており、往時をしのばせる。瀬戸大橋の完成で、丸亀・坂出などが香川県の西の玄関口として脚光を浴びている。海岸沿いの埋め立て地には製薬・化学・繊維などの諸工場が立ち並び、西部海岸の塩屋町付近は、団扇の産地として有名です。
丸亀城跡・室町中期奈良太郎左衛門元安が宇多津聖通寺城を築いたとき、その支城を置いたのが起こりという。城は小山を利用して構築された典型的な平山城で、二重の堀をめぐらしているが、現在は外堀は埋め立てられているが、内堀以内はほとんど昔のままに残されており、国の史跡として保護されている。天守・大手一の門・大手二門なども現存され、国の重要文化財に指定されている。山頂からは“讃岐富士”の呼び名で親しまれる飯野山を眼前に、丸山平野の広い眺望が楽しめます。市民の憩いの場となっている。
・丸亀のうちわ。江戸中期、丸亀藩の財政再建策の一つとして作り始められ、安政のころには、藩主京極高朗の奨励もあって八十万本ほどつくられたといわれ、“伊与竹に土佐紙はりあわ(阿波)ぐれば讃岐団扇で至極(四国)すずしい”などといった俗謡も伝えられている。昭和四十七年には全国生産の八十%以上を占める五千万本を製造した。現在は生活様式の変化により最盛期には及ばないが、イベント用などの需要もあって、全国生産の約九十%をあげている。
・琴弾公園。観音寺公園市街の北西、財田川左岸にある琴弾山とその西方の有明浜一帯で、国の名勝に指定されている。山麓には観音寺・世界のコイン館・市立郷土資料館などがある。山頂まで四方から手軽に登れる遊歩道あり、頂上展望台からは、砂の芸術“銭形”を眼下に、瀬戸内海の広い眺望が楽しめる。山腹から有明浜へかけて老松林に覆われ、、小傘松・根上り松・姫松・臥竜松などとナズけられた名木、自然の造形の妙を見せている。有明ふれあい海岸は絶好の海水浴場として知られ、夏は海水浴客で賑わう。
・銭形砂絵。「寛永通宝」。琴弾山西麓の有明浜にある。“寛永通宝”の銭形を砂で描いたもので、東西一二二㍍、南北九十㍍、周囲三四五㍍の巨大なもので、寛永十年丸亀藩主生駒高俊がこの地を訪れた時、高俊をなぐさめる為、付近の漁民たちが一夜にして作り上げたという話が残っている。現在、春と秋の二回砂ざらえが行われている。観音寺の観光名所の一つである。
・金刀比羅宮。象頭山の東腹にあり「さぬきのこんぴらさん」と親しまれている海の神様です、代々の讃岐の領主の尊敬が厚く、生駒高俊は寺領三三○石を寄せ、高松藩松平氏初代頼重は経蔵・灯籠などを造立。寺領を安堵して慶安五年、徳川幕府に願い出て朱印地とした。その為琴平の門前町は歌舞音曲が自由になり、賭博も黙認され、参拝を兼ねて庶民の“レクリエーション地”として発展した。江戸中期以降に参拝客も増えてくる、これはこの宮を尊敬した、塩飽諸島の舟人達が、各地に宣伝したことや高松藩・丸亀藩などの政策によるものです。当時金比羅参りは、伊勢参り・京参りとともに庶民の三大行事の一つとされた。諸国から参拝客のための便船が毎日のように丸亀につき、琴平への道を旅した。今も街頭沿い遺存する常夜灯が昔をしのばせる。明治時代に神仏分離令により、社号は琴平神社・事比羅宮などと改められ、明治二二年、現在の金比羅宮となった参道の石段の長さが有名で、本宮まで785段、奥社までの合計は1368段。参道両側の土産物店をのぞくのも愉しいですよ.
愛 媛 県
愛媛県の自然景観。愛媛県は四国の北西部に位置を占め、東は香川・徳島の両県に、南は高知県に接し、北は瀬戸内海を隔てて広島・山口両県に対し、西が豊後水道を挟んで大分・宮崎県に相対している。古くから東予・中予・南予の三区域に分けられ、高縄山脈以東を東予その以西石鎚山脈との間を中予、石鎚山脈以南を南予と呼んでいる。平野部は道前・道後の二平野にと海岸平野、佐田岬以南の宇和海沿岸は出入りの多い典型的なリアス式海岸を示し、海上には日振島・戸島のほか小島が点在している。足摺宇和海国立公園にも含まれる景勝の海岸美を誇り、宇和海は全国で初めての海中公園に指定された。瀬戸内海方面の伊予灘海岸は単調な海岸線をみせ、伊予市以西には断層海岸が続き、一部には砂丘が発達している.西日本の最高峰・石鎚山・四国カルスト・面河渓・佐多岬の夕景・宇和島の漁港・段々畑・天赦園・銚子の滝・サクラに彩られる松山城・日本で最古の歴史をもつ道後温泉・富豪渓谷・今治城・など等沢山の見どころがあります。
・松山市・松山市は愛媛県の県都であるばかりでなく、四国第一の都市であり、歴史的にも文化的にも四国の中心部にふさわしい風格を備えている。松山城をはじめとして、由緒ある神社や仏閣、文化的な遺産も多く、「記紀」に登場する道後温泉もまた古典的な趣を残している、さらに松山は、藩政時代から伝統的な俳句の盛んな町で、子規・鳴雪・虚子などの近代俳句を代表する俊秀を輩出し、市内に100余りの句碑があり俳都松山の姿を浮彫にしている・また若き日の漱石ゆかりの地で、名作「坊ちゃん」の町としても有名です。
・松山城跡・松山市街ほぼ中央に盛り上がった、勝山山頂にある平山城の跡。白亜の連立式天守閣を中心に、多くの楼閣や石垣、堀などが遺存して、昔の面影をよくとどめている。国の史跡に指定されており、姫路城・・和歌山城とともに、わが国の三大連立式平山城の一つで観光松山のシンボルになっている。城跡一帯は城山公園ンとして整備されており登山道は三コースになっている。天守閣は一般公開されており、松山市街を眼下に道後公園から遠く石鎚連山が見渡せられる。・坊ちゃん列車。明治の文豪夏目漱石の小説から名前の由来が来ています、「マッチ箱のような汽車」との形容もあった。是非乗ってみましょう。
・道後温泉。道後温泉はわが国でも最古の歴史をもつ温泉で「熟田津の石湯」あるいは「伊予の湯桁」の名で「万葉集」にも歌枕ともなっている。「伊予風土記」によると、少彦名命がこのお湯につかって病を治したとされ、また傷ついた白鷺が湯浴みするのを見て発見されたという。温泉地によくある白鷺伝説も残っている。湯之町の中央にこの温泉を発見したという伝説の白鷺を屋上に飾った三層の振鷺閣とよぶ道後温泉本館がある。この建物は明治二七年の建築で、一部には皇族専用の湯殿として同三二年に特設された又新殿がある。檜皮葺き、破風造りの安土桃山風を模したもので普段は使用しない。国の重要文化財に指定されている。以前は浴槽はこの本館だけにしかなく、温泉客は旅館の案内でこの湯につかりにくるという、他の温泉地には見られない情緒があったが、新しくボーリングして湯量も増え、昭和三一年からは各旅館にも内湯が引かれた。華やいだ湯の町の情緒が漂う。
・鍵屋カナの墓。松山市西垣生町、松山駅南西約六㌔、伊予かすりの始祖とされる鍵屋カナの墓で、県指定の史跡になっている。江戸中期天明二年に生まれ、十七、八のころ、農家の藁屋根の葺き替えの時、スス竹に表れた美しいかすり模様を見て、これを織物に織り込もうと考え、ついに享和年間に伊予かすり織を創始したといわれる。
・瀬戸内海国立公園。雲仙・霧島とともにわが国最初の国立公園に指定された海洋自然公園。指定区域は瀬戸内海の主要部を占め、福岡・大分・愛媛・香川・徳島・山口・広島・岡山・和歌山・兵庫の十県にまたがる。特徴は波静かな海に白砂青松の三千余の島々が浮かぶ瀬戸内海の海洋景観にあり、温暖な気候にも恵まれて四季観光に適し、鳴門の渦潮や安芸の宮島など、わが国でも指折りの景勝地が多い。
・姫ヶ浜。中島の南部、長師集落の前面に、延長八百㍍余にわたってつづく白砂の浜。背後は松林で、海上に大小の岩礁島が浮かび、夏のシーズンには松山市方面からの海水浴客でにぎわう、キャンプ場もあり、釣りにも楽しめる。家族ずれでのんびりするには格好のところである。
・五色浜。伊予市灘町。伊予港の南西につづく海浜で、港を挟んで北には新川海水浴場がある。瀬戸内海の美しい海景に臨み、美しい松林の中には、遊園地をはじめ軟式野球場・海水プールなどがある五色浜海浜公園となっている。平安の昔、屋島の戦いに敗れた平家一門の五人の姫がこの浜に漂着したが、世をはかなんで海に身を投げ、五色の石に化したという哀愁の伝説があり、今も五色の球砂が海浜を彩っている。
・白滝。長浜町白滝、伊予白滝駅の北東約一㌔肘川の支沢なかかっている。雄・雌の二滝からなり雄滝は幅二㍍高さ八十㍍。雌滝は幅三・五㍍高さ六十㍍。ほかに落差三十㍍の御来迎の滝、合歓の滝、貫洞の滝などの滝があり苔むす岩や飛沫をあげて落下する水が周囲を覆う自然美と美しく調和している、野鳥も多い、十一月二三日にはこの滝に身を投じたるり姫親子の霊をなぐさめる“るり姫祭り”が催されます。
・大洲城跡。肘川の右岸に残る平山城の跡。鎌倉初期、河野道信が砦を構えたの始まりというが、本格的な築城がされたのは元弘元年以降。その後城跡は城山公園とされているが本丸・二の丸や堀・石垣などが県の指定史跡になっている。数棟の楼閣も現存し、本丸跡や肱川河畔の二ノ丸跡に建つオワタ櫓、三の丸西の門近くの南隅櫓が国の重要文化財に、城下の台所が県の文化財に指定されている。園内には桜が多く肱川の清流を見下ろす眺めもよいまたNHKのテレビ小説「おはなはん」の舞台になったこともある。
・臥竜渕。肘川の清流に臨み富士山に対した景勝地で、藩政時代は藩主の遊覧所となっていた。名の由来は深淵にひそむ龍の姿をみたということから藩主が命名したものという。淵を見下ろす丘の上に古式庭園のある臥竜山荘、および流れに近く市営の国民宿舎臥竜苑がある。水郷大洲市の代表的な景勝地で、市の名勝に指定されている。富士山公園も散策してみよう
・宇和島城。築城名手高虎、会心の名城鶴島城とよばれる秀麗な天守は当時のまま現存する
・宇和島の闘牛。
宇和島の闘牛。観光宇和島を代表する名物行事。市内天満山の市営闘牛場で毎月一回開 か れる。起源は古く享和年間にはすでに行われていたという記録が残っている。宇和島付近で牛 の角を突き合わせ、力くらべをやらせたという説と、宇和島の沖合で難破したオランダの舟を 救助してお礼にもらった牛の気性が荒く、角を突き合わせ格闘を始めたのが最初とする説があ る。基本技は押し・う突き他十種ある。闘志を失った方が負けになる。壮絶で、手に汗すを握 ります。
・せと風と丘パーク。風車と瀬戸内海を一望する絶好のビユーポイント
・石鎚山。標高1982m四国の屋根・西日本最高峰、大樹海のかなたに瀬戸内の景色や中国・九州の山々も望める、日本七霊山の一つ。
・八釜の甌穴群。柳谷村柳井川。黒川の河床になっている堅いフリント質角岩の上に生じたもので大小三十余の甌穴が五列に並んでいる。各甌穴間は小さな滝となって順次連結し、この列は現在川の主流になっている。甌穴の最大のものは径九~十二㍍、深さ十三・五㍍にも達し大きな釜状となっている。形状によってトンネル釜・二段釜・メガネ釜・獅子釜などと名づけられ、それが八箇あることから八釜の名が出たものである。付近は柳谷キャニオンの名でも呼ばれているV字型渓谷で、両岸には百㍍を越える断崖がそそり立ち、懸谷滝が各所に掛かって見事な景観を展開している。国の特別天然記念物に指定された。
・御三戸嶽。美川村志出。村の中心の御三戸の東方、面河川と久万川合流点東側にある。複雑な岩面を見せてそそり立つ石灰岩の絶壁で、頂上に老松おいただきいて見事な景観を呈している。陽のあたり具合で一日に七回彩を変えるといわれ“七面鳥岩”の別称がある。県の名勝に指定されてている。
・古岩屋。久万町直瀬、町の南東端、美川村の岩屋寺とちょうど背中合わせの位置二にある。
数千年の間に風化、浸食されて出来た岩峰群で、高さ数十㍍にも及ぶ巨岩が群立するさまは異様かつ豪快な眺めです。岩腹には無数の穴があり、頂に古松をのせ、ツタ類が着生して趣を増している。付近には桜、カエデが多く、花のころ、紅葉の秋にはそれぞれよく、格好のハイキング地になっている。国の指定名勝になっている。
・面河渓。面河村大味村、石鎚山の南腹、面河川上流の約十㌔の渓谷をいう。両岸には、頂に原生林をのせた深成岩や変成岩の岸壁がそばだち、岩壁を洗う面河川は、早瀬・滝・淵と目まぐるしく変化しており、時には甌穴をつくるほど、複雑な流れを見せている、国の名勝に指定されている。春の新緑のころ、涼風が清流をわたる夏といずれもよく、とくに秋の紅葉期の眺めはすばらしい。渓谷中には、関門・鉢葉岩・相思渓・亀腹・蓬莱峡渓・紅葉河原・下熊淵・上熊淵・虎ケ滝・阿弥陀淵・御来光の滝などと名付けられた景勝がある。
・野福峠。七㌔に及ぶ曲がりくねった峠道が右に左に風景を変化させ、新緑・紅葉ともに素晴らしい。特有の段々畑とリアス式の出入りの多い海岸線が眼下に広がり、日振島・戸島をはじめ大小の島々や、はるか九州の山並みから佐賀関の大煙突も望見される。愛媛八勝の一つに数えられる景勝地である。また、県下でも指折りの花見名所であり、つづら折の峠道に沿って六百本もの桜が訪れる人を楽しませてくれる。近隣随一の宇和町の法華津峠も訪ねてみよう。豊後水道を隔ててはるかに九州の島々が望めますよ
・天赦園。宇和島市立博物館のすぐ南東、面積約一五平方㍍の池泉回遊式庭園で、国の名勝に指定されている。江戸後期伊達氏七代宗紀が隠居地として造立。名の由来は遠祖伊達政宗が作った漢詩からの引用という。十数種の竹が植えられ、伊達氏の祖先が藤原氏ということから多くの藤が植栽されており、〝白藤“や”上り藤“は見事ですね。藤が花をつける初夏、紅葉のころとも素晴らしい。
・滑床渓谷。松野町内目黒。四万十川の渓流、鬼ケ城山塊に抱かれた一二㌔に及ぶ大渓谷。足摺宇和国立公園に指定されている。浸食によってできた花崗岩の滑らかな河床が特徴で、千畳敷きや出合滑では広々とした岩肌が見られる。また、巨大な一枚岩の上を流れる幅二〇㍍、長さ八〇㍍の雪輪の滝は、日本の滝百選にも認定されている名瀑で、滑床渓谷の象徴となっている。渓谷にはこのほか霧が滝や布が滝など多くの滝がかかっている。また渓谷には広範囲に天然林が残っており、新緑や紅葉など四季折々の美しさや山頂からの宇和海の展望を楽しむことが出来る。
・来島城跡。来島海峡に浮かぶ、周囲二㌔足らずの来島にある海賊城の跡。中世村上水軍の根拠地の一つとされたところ。島は三段に削平され、昔の井戸や石垣を残し磯には無数の柱穴が見られる。村上氏は、平安末期のころから瀬戸内海一帯の島々で勢力をのばした豪族。
・千疋の桜。鈍川温泉の南東、玉川上流の仏が峠・千疋峠付近にはヤマザクラの老木が多く、四月の花のころには、スギ・ヒノキの樹林の緑の中にピンク色の模様を描きだし、見事な景観を呈している。国の名勝に指定されている。
・別子ライン。国領川の上流、生子橋から清滝を経て河又まで約十キロの渓谷をいう。市指定の名勝で、鹿森ダム・遠登子志渓谷・もみじ谷といった見どころがあり、そそり立つ岩壁と清流、木々の緑が見事な調和を見せている。かって読売新聞社選定の“新日本百景”の五位に選ばれた。もみじ谷は、渓谷中特に秋景色がすぐれていることからこの名がある。
清滝は高さ約六十㍍。国領川左岸の岩壁から、白布を垂らしたように落ちている。
・富郷渓谷。伊予三島市富郷。金砂湖の上流、銅山川にかかる富郷橋から松野のあたりまで、約六㌔の渓谷をいう。富郷橋付近に旅館・商店があって渓谷深勝の基点になっており、ここから本流の北岸をさかのぼると“戻り嶽”とよぶ景勝がある。両岸に高さ六十㍍を越える岩壁がそば立ち、岩の割れ目に赤松・岩ヒバが生息して、山水画を思わせるような風景が展開する。この近くの河原に市営のキャンプ場があり、野外炉・売店・手洗所・給水施設などが整っている。富郷渓谷の上流、別子山村との境界近くに“戸女の接待”と称する大甌穴がある
高 知 県
県は暖流黒潮を南に望み、北は四国山地お背にしているため、海岸地帯では冬も比較的穏やかで、特に東西の室戸・足摺の両岬付近は温暖である。その一方で北部山間地域の冬は厳しい、また南から吹きつける湿気の多い空気が四国山地にさえぎられ、県全域に多量の雨を降らせる。東西に広がる高知県は、台風の通り道にあたり“台風銀座”の一つでもあり、北上する台風の影響を被る機会が多い。“南国土佐”と称されるように亜熱帯的な気候風土がさまざまな景観をつくり出し、それとともに多くの自然が今なお残されている。代表的な景観・桂浜・龍河洞・室戸岬・横浪(浦ノ内)半島の帷子埼付近・双名島・天狗高原・四万十川源流・足摺岬・白山洞門・観音岩等。祭りは県を代表する、“よさこい祭り”、吉良川の御田祭り、他県内各地に伝わる土佐神楽などが今日まで継承されている。
・高知市。浦戸湾奥に発達した県庁所在地の高知県は、慶長六年、土佐に入国した山内一豊が大髙坂山に高知城を築いて以来、県の中心地となっている。史跡や神社・仏閣も多く、幕末期には坂本龍馬や武市瑞山などの多くの志士を輩出した。またよさこい祭りや、変わった祭りとして有名などろんこ祭りなどもある。古代、土佐国府がおかれていた南国市は、国の特別天然記念物オナガドリの原産地として知られており、土佐山田町にある龍河洞とともに高知観光の重要なポイントトなっている。
・高知城。初代土佐藩主山内一豊と妻千代が築いた二十四万石の城、関が原戦の功績で徳川家康から土佐一国を拝領、国の重要文化財で
・よさこい祭り。8月9日~高知県で鳴子を持った踊り子が工夫を凝らし市内を乱舞する土佐のカーニバルです。不況を吹き飛ばし、市民の健康と繁栄と、商店街の振興を促すために発足した土佐の夏一大イベント
・はりまや橋。高知駅の南約八百㍍のところ、国道三十二号線と同五十五号線が交差する市の中心部にある。「よさこい節」にも歌われている、高知の代表的な観光名所になっている。橋は明治四一年にかんざし形の鉄製橋が架けられ、その後朱色の欄干が施されてりし、その後平成十年に御影石の橋に並んで赤い太鼓橋が新造された。はりまや橋一帯のはりまや橋公園も再整備され、堀川を埋めて地下道になっていた橋の下には水路が復活している。
・桂浜。市内浦戸、県を代表する景勝地に一つで、浦戸湾口、竜頭岬と竜王岬の間に、弓状に広がる海岸で、背後に茂りあう松の緑と、海浜の五色の小砂利、紺碧の海とが箱庭のように調和し見事な美しさを広げている。多くの歌人に歌われた景勝地で、幕末の風雲児坂本龍馬が太平洋の荒波を睥睨している。海浜一帯は桂浜公園となっている。
・龍河洞。土佐山田町、町の南東部、三宝山の中腹に口を開けるわが国でも有数の大きさをもつ鍾乳洞で国の天然記念物に及び史跡に指定されている。洞窟の存在は古くから知ら、土御門上皇の伝説なども残されているが、全貌が明らかにされたのは、昭和六年、高知県立海南中学の山内浩・松井正美両教諭の探検以後である。洞の延長約四㌔内部は二本の主洞のほか、多数の支洞に分かれている。洞内には鍾乳洞・石筍・石柱が発達している。これに地下滝や流水、甌穴が加わっている。探勝には案内人がつく。
・轟きの滝。香北町柿の木、猪野沢温泉の北西約四㌔のところ。物部川支流の日比原川上流の渓間にかかる滝で県の名勝および天然記念物に指定されている。落差は約八二㍍で、水量は豊富。灰色粗粒砂岩の壁面を三段になって滑り落ちる。最上段の滝壺は、直径約一五㍍、深さ数㍍の見事な円形の甌穴をなし、青く澄んだ神秘的でさえる。平家の落武者の娘が滝壺の主と結ばれたとの伝説がある。
・龍王の滝。大豊町佐賀山、県立自然公園内の梶ヶ森七合目にある滝で、日本の滝百選の一つに選ばれている。しぶきをあげながら豪快に流れ落ちる水、滝壺にはアナゴやサンショウウオが生息している。空海が若いころに、修行をしたところともいわれている。滝まで遊歩道が通っているのでハイキングが楽しめます。
・室戸岬。室戸市室戸岬町、市の最南端、土佐湾の東側に突き出た岬で、同じく西端に突き出た足摺岬と相対している。地元の人は“お鼻”と呼んでいる。一年を通じて暖かく、霜雪を見ることはまれだが、風速十メートル以上の強風の吹く日が多く、夏から秋にかけてしばしば台風の上陸で“台風銀座”あるいは“風の室戸”の別称がある。岬の先端付近には、打ち寄せる太平洋の波に浸食された斑レン岩の奇岩乱礁が屹立し、紺碧の海と相まって見事な景勝が展開する。背後には白亜の室戸岬灯台などが建つ。
・室戸岬灯台。室戸岬のシンボル。国内最大級のレンズの大きさを誇り、直径2m60cmで「日本の灯台50選」の一つ
・足摺椿まつり 足摺岬を中心に椿の花が見ごろの毎年1月~2月に開催される。
「椿の岬」の名を持ち、岬半島全体で約15万本ともいわれています。
・大滝の滝。越智町越智、街の南約三㌔のところ、仁淀川の支流、大樽谷川にかかる滝で、県の名勝に指定されている。「日本滝百選」の一つにも選ばれている。落差約三四㍍、水量も豊富で四億年も前の花崗岩の急崖をしぶきをあげて落ちている。
・さわち料理。古来より受け継がれる味と彩りの集大成、堅苦しいルールに縛られる事を嫌い、自由を尊重する土佐の料理、山海の味覚の集合体ー皿鉢料理。
・四万十川(しまんとがわ)高知県西部を流れる一級河川。全長196km、四国内最長河川日本最後の清流、柿田川・長良川と共に「日本三大清流」、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれている.源流を東津野村の不入山の東斜面に発し南流する。窪川町に入って西に流れを変え、西土佐村で再び南流し、中村市に入って土佐湾にそそぐ。流域の八十五%が山地で、上流部には広葉樹が多く、水源涵用の役割を果たしている。中・下流部には約三十基の沈下橋が架かり、トンボの保護区もある八十種以上が記録されている。鮎やウナギの漁獲量は全国有数である。わたり川とも呼ばれている。
・こいのぼりの川渡し。高知県四万十町十和地区・日本におけるこいのぼりの川渡しの発祥の地、毎年約500匹が四万十川の春の風物詩としてこいのぼり公園上風を渡される。
・入野松原。大方町入野、砂丘の背後につづく砂丘上に、幅五百五十㍍、長さ四㌔にわたって数万本のクロマツガ群生し、見事な景勝を見せている。これらのマツは、天正年間、長曾我部元親の家臣谷忠澄が中村城代の任にあったときに植えたのが始まりと伝えられている、その後何回か捕埴されている。
・鹿島ヶ浦。佐賀町南東部、佐賀港一帯を鹿島ヶ浦とよび、港の入口に相対して鹿島・厳島の二つの島が、美しい風景を描き出している・海岸部は土佐西南大規模公園地区に含まれている。鹿島は周囲一㌔程の小さな小島ですが、昔から樹林の伐採が禁忌とされてきたため全島原生林に覆われ、タブやオガタマ・イヌ・テイカカズヅラなどの巨大珍樹が多く、学術的価値も高く、全島が県の自然環境保全地域に指定されている。
・足摺岬。土佐清水市、市の最南端、足摺半島突端の岬で、土佐湾の西端を画し、同じく東端の室戸岬と相対している。異国最南端の岬で、古くはサダ岬とも呼ばれた。岬は標高四三三㍍の白皇山を中心とする花崗岩台地が沈降と興隆を繰り返してできたもの。三段に海岸段丘が発達し、岬端は高さ八〇㍍ほどの断崖で太平洋に落ち込み柱状の海食洞が多く見られる。岬の先端に足摺岬灯台が立っている。
県内には31か所の温泉地が存在している。源泉数は86か所で、湧出量は毎分7000ℓ。宿泊施設は35、宿泊利用人数約34万人と比較的少なく、温泉県とはいいがたい県です。
・祖谷温泉。県中西部、四国山地の真っ只中にある今なお平家伝説が残る、秘境ムード満点の温泉地。山里に一軒宿が点在し、山々と清流を眺める大浴場、露天風呂を備え、秋には紅葉を、冬には雪見など季節の移り変わりを楽しめる。温泉地は1965年に開発され、山峡の秘湯ながら宿泊料金が数万円の高級旅館もあります。秘湯人気の高さがうかがえます。大歩危、小歩危の渓谷美を楽しめます。
香川県の温泉数、28・源泉数192.涌出量10,964宿泊数54.2014年宿泊利用数882、644人全国41ランクされている。行基や弘法大師に因む塩江温泉は国民保養温泉の指定をされている。県は瀬戸内海に面して讃岐平野が広がり、雨が少なく水量に乏しく灌漑用のため池が多く分布していた。瀬戸大橋の開通で交通の便利がよくなり、経済や観光の発展をもたらした。温泉地は少ないが、源平古戦場がある、屋島、高松藩主が造園した栗林公園、金比羅山、壺井栄の名作「二十四の瞳」の舞台であり、オリーブの里でもある小豆島、寒霞渓などの見どころがあります。
・塩江温泉。塩江町安原上。篝山の麓、細く長い湯街が開けています。天平年間僧行基によって発見され、空海が開発したと伝えられるが、湯治場として一般の人々に利用されるようになったのは江戸末期のことです。“さぬきの箱根”などとも称されるが、旧街道に沿う街並みは今も昔も湯治場時代のひなびた風情を残している。湯元は2か所あり、硫黄分の多い冷鉱泉が湧出しているため硫黄の臭いが強い。春の桜や初夏の新緑、夏は清流でカジカが鳴き、合歓の花が咲く。秋の紅葉もよく、冬は雪景色と、四季折々の風物に恵まれています。付近にも見どころが多くあります。不動の滝も見逃せません。
・土柱休養村。県中北部、吉野川中流域に土層が柱のように群立するユニークナ土柱景観が形成されており、国の天然記念物に指定されている。その他に、阿波町営休養村の日帰り温泉が開設された。少し離れたところに「阿波土柱の湯」があり、吉野川や阿波平野を見渡せる展望大浴場がある。
・馬の淵温泉。津島町馬の淵。昭和四十年六月、老人福祉センターとして発足。ここは昔から河原の石の間から湯が沸き、馬子たちがその湯に馬の足を浸して休めていたところからこの名がある。周囲は岩松川沿いの静かな山峡で、のどかな田園風景は人の心を和らげる。横吹渓谷へはここから徒歩約十分、行楽の家族ずれの訪れも多い。
・大洲温泉。大洲市大洲、市の中央部から一二㌔離れた武陵地区に湧く鉱泉を市内にひき湯したもので国民宿舎のほか肘川沿いの各旅館に配湯している。鵜飼見物や市内観光の足湯に利用されている。
・奥道後温泉。道後温泉の東五㌔、石手川上流の渓谷に湧く温泉で、山と渓谷の美に恵まれた松山市の奥座敷。この一帯は昔から湯山七湯と呼ばれて各所に温泉が湧いていたが、昭和三九年に大幅に開発された。奥道後を中心に遊園地が造成され、自然の景勝地、湧ヶ淵渓谷をはじめジャングル風呂・遊技場・おとぎの国・こども動物園・フラミンゴ園・錦晴園・釣り堀・娯楽場・食堂街などがある。なかでも金閣寺を模して建てられたという錦晴殿はここの自慢のものです。またロープウェイで登れば絶好の展望所で、道後平野や瀬戸内海から石鎚連山の諸峰が一望できる。
・東道後温泉。松山市南久米町。市街地の中心から南東へ約三㌔、国道沿いに沿った田園に湧く温泉。昭和三七年にボーリングを行い、三十八年十月、豪華なファミリー温泉が完成。この温泉の呼びものは五階につくられて空中大温泉と称する展望浴場で、湯にひたったまま松山城や松山市街地をはじめ、道後平野のはてにつづく瀬戸内海の島々が眺められる、その他二百人収容の大浴場・家族風呂・大食堂・娯楽施設・演芸場なども完備している。
・鷹ノ子温泉。松山市鷹子町。弘法大師の開湯という古い歴史をもつが、今は大衆的な温泉センターとして人気を集めている。五百人収容の大浴場やサウナ、演芸場、ホテル、食堂街などが整っており、秋には近くで観光ミカン狩りが楽しめる。
・権現温泉。市内権現町。古くから里人たちに利用されていた温泉で、昭和三三年に新しくボーリングを行い、本格的な開発が進められた結果、現在では旅館の数も温泉センターのほか十二軒を数える新興の温泉地となった。道後温泉は歓楽郷として賑わっているが、この温泉は三方を丘陵に囲まれた田園の閑静な温泉である。
・小藪温泉。肱川町、鹿野川から北西に約一㌔、肘川の支流小藪川の上流渓谷間にある山の湯。旅館を兼ねた老人福祉センターもある。小藪川の渓谷には蛇谷・竜王院・美砂滝などとなずけられた景勝があり、格好の散策コースになっている。
・成川温泉。広見町奈良成川。町の南東部三間川支流の成川上流の渓谷間にある鉱泉宿。三棟の温泉付き離れとバンガローが整っている。保養・静養によく、背後に盛り上がる高月山・鬼が城山の登山基地にも向く。付近の渓谷は成川渓谷と呼ばれる景勝の地で、清流を挟んで広葉樹がうっそうと茂りあい、とくに右岸の山腹は山桜を中心に数千本の桜で覆われ、花のシーズンには見事な景観を呈する。
・本谷温泉。東予市河之内、奈良時代舒明天皇や斉明天皇が入湯したという記録もある古い温泉で大明神川上流左岸にあり、道後温泉(松山市)鈍川温泉(玉川町)と並び伊予の三湯の一つ。平成六年に改築以来、泉質の良さと恵まれた大自然が好評で、多数の入浴客で賑わっている。周辺はキャンプ場、日本庭園、冒険広場、イベント広場が整備された自然公園となっている。
・鈍川温泉。玉川町、町の中央部、蒼社川支流の玉川の渓間にあり、谷間に臨んだ崖の上に湯宿が並んでいる。天平年間の開湯といわれて歴史は古い。昔は湯の谷と呼ばれ、江戸時代には今治藩主の湯湯治になっていたという。環境は静かで、今治の奥座敷とも称されている。
県内には35の温泉地、96の源泉数、宿泊施設50、2014年宿泊利用人数約45万人となっている。四国で唯一太平洋に向かって開けた県で、沿岸は黒潮で洗われカツオ、マグロの漁獲量が多く、特にカツオは全国4位です。
・蘇鶴温泉。伊野町大内。町の南部、仁淀川右岸の中の谷から、少し西に入った小さな山間にある。古くから硫黄泉が湧出ていて近在の人たちに湯治場として利用されてきた。矢傷を受けたツルが山麓に湧く泉で傷を治していいるのを見かけたとか、泉を蘇鶴と名付けこれが、蘇鶴温泉の始まりという。
福岡県
・田代の風流
江戸時代柳河藩主立花鑑通公は、田代地区(福島県八女市)に八龍神社の再建を命じ、その際自らも大名行列を仕立て、風流を奉納しました(安永2年1773年)その後は氏子たちが藩公に代わって風流を奉納するようになり、これが風流と大名行列の起源となりました
田代の風流 蒙古襲来絵詞より 博多人形
・元寇防塁(げんこうぼうるい)。
蒙古襲来に(元寇)備えて博多湾一帯に築かれた石による防塁(鎌倉時代)弘安の役の折は防塁の効果でモンゴル・高麗軍一切上陸できず。昭和6年国の史跡指定
・博多人形 福岡県の伝統工芸品。
福岡市の博多地区で作られてきたが地区外でも多く製作されている、経済産業大臣指定伝統的工芸品。
・太宰府天満宮。
菅原道真公を永久にお祀りしている神社で、「学問・至誠・厄除け」の神様とし多くの崇敬を集め毎年多くの参拝者がおとずれる
・芥屋の大門。 日本最大の玄武岩洞(日本三大玄武洞=芥屋の大門・唐津七ツ釜・兵庫県豊岡市玄武洞)で高さ64m、奥行90m、間口10mの洞窟は神秘的な景観を呈している国の天然記念物、糸島を代表する観光地です。
・柳川ひな祭り。
親から子へ子から孫へ想いをつないで平成27年2月11日(祝)~4月3日(金)
・こたつ船
お堀めぐりを体験してみませんか?2014年12月1日(月)~2月28日(土)
・水落ち
お堀の水を落としてお堀の清掃を行います 2015年2月17日~2月26日(木)
・北原白秋記念館
明治・大正・昭和と生き日本近代文化に多大な足跡を残した詩人北原白秋の記念館。代々柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家に生まれ16歳の折家の大火にあい傷心の白秋は詩歌の創作に熱中したい言われます。「水郷柳川は、我詩歌の母体である」と述べ57歳で亡くなるまで生涯柳川を愛し数多くのすぐれた詩を遺しまし
・有田・伊万里 唐津
日本有数の焼き物の産地。特に有田・伊万里・唐津は世界に誇る陶磁器の里,日本の陶器発祥の地、有田。有田焼を各地に積み出した港、伊万里。「土もの」の代表格といわれる唐津、磁器製の狛犬や鳥居、レンガの煙突など焼き物の町、窯元めぐりと共に歩んでみたいものですね。
伊万里大川内山一帯が「大川内鍋島窯跡」として国の史跡指定を受ける。「一楽二萩三唐津」と称される。
伊万里焼 唐津焼
佐賀県は、九州の北西部にあって、東は福岡県、西は長崎県に隣接し、南は有明海に臨み、北は玄界灘を隔てて朝鮮半島に相対している。歴史的には遠く無土器時代から人々が住みつき、「魏志倭人伝」によれば、三世紀ころから現在の松浦地方に国を形成していたという。こうした歴史をもつ本県は歴史的に恵まれ、それを物語る遺跡・旧跡・文化財が数多い。国特別史跡多くあります。また美しい自然景観にも恵まれ、玄海国定公園をはじめ背振北山・川上金立・黒髪山・多良岳・天山・八幡岳の六つの県立自然公園があり、有明海岸の風景も見事です。国指定の特別名勝で有名な虹ノ松原、海蝕洞の七っ釜、伊万里湾のいろは島、西の華厳とも称される清水の滝などが見どころの中心で山間部には俗化されていない景勝地も多い。
・佐賀市は「クスの都」「水の都」といわれる。江戸時代を通じて鍋島藩の城下町として栄えてきただけに、それにふさわしい風格をそなえた町である。城跡を囲んだ堀、市内を縦横に走る掘割り、その水に影を落とすクスの老樹や枝垂れヤナギ、新興都市に見られる喧騒もなく、古い歴史と伝統が今もなお息づいている。そうめん・干し柿の産地として知られる。・有田ポーセリンパーク。有田町中部、陶磁器を歴史、製造工程などさまざまな角度から学ぶ楽しむためのテーマ―パーク。四三㌶の広大な敷地内に入ると、ドイツにあるツブィンガー宮殿を摸した城に出迎えられる。宮殿内のアートギャラリーで有田焼の常設展と各種の企画展が行われる。
有田陶器市。毎年四月二九日から五月五日まで開催される有田名物陶器市は、有田町の目抜き通りに、えんえん六㌔にわたって商社や商店が露店をだし、陶磁器を積んで年に一度の蔵さらえをするもので、その規模は全国一といわれ明治二九年以来約百年の歴史をもつ催しである。国内外から多くの買い物客でにぎわう。
唐津市。唐津市および松浦半島一帯は、古くから大陸との交流があり、大陸文化との接触地点にあたっていた。それだけに、刀伊・元など外敵の来襲にもさらされたが、一方で、朝鮮出兵の際には、その根拠地となったこともあり、人々の関心は常に海のかなたに注がれた。中世には松浦党が勢力を占め、江戸幕府が政権を確立してからは、県内の大部分が外様である鍋島藩の所領として明治を迎えたのに対し、唐津藩は小藩でありながら大名の交替が頻繁で、このことも有明海側とは違った気風を育てたことと無関係ではない。現在はこの一帯は玄海国定公園に含まれ、雲仙から佐世保を通じ唐津から福岡県を結ぶコースが国際観光ルートとして脚光を浴び、呼子と鎮西市との間を名護屋大橋が結んでいる。
・唐津城跡。唐津市東城内、別名舞鶴城とも呼ばれる唐津藩主が慶長七年から七年の歳月を費やして完成したものとされる。城は本丸・二の丸・三の丸に分かれ、その周辺は外堀や海に囲まれ、周囲約四㌔に及ぶ広大な城郭には、櫓閣が威容を誇っている。明治四年廃藩置県とともに廃城となり、建物は解体された。明治十年に、本丸の一部は舞鶴公園として開放され、今日に及んでいる。舞鶴城の名は、東の虹の松原と、西の浜の弧を描いて広がる白砂の連なりを両翼にして本丸を鶴の頭部に見立てると、その形があたかも両翼を張って天に舞う鶴の姿に似ているところから名付けられたものといわれている。
・見返りの滝。相知町、松浦川の支流、伊岐佐川の上流にかかる。九州最大のスケールを誇る滝である。岩盤のクレパスに沿って流れる清流が落差百㍍の滝壺に凄まじい音を響かせ、辺り一面にしぶきを飛ばしながら流れ落ちる様は、九州でもほかに類をみない豪快さである。「日本の滝百選」に選ばれている。春は桜、秋には紅葉など四季折々の彩りを見せている。紫陽花の咲きほこりも素晴らしい。観音の滝・猪堀の滝も見てみよう。
・名護屋城跡。鎮西町名護屋。名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、その本拠とするために、加藤清正の設計監督のもとに、九州諸侯に命じて築かせた平山城で、もと名護屋氏代々の居城があった垣添山の要害を拡張し、天正一九年に起工翌文禄元年に完成したといわれる。城郭の周囲は約一五町に及び、本丸・二の丸・三の丸・山里丸の四主郭と腰曲輪・小曲輪など大小の曲輪からなり、五か所に城門が設けれている。また建物は五層七重の天守閣をはじめ多くの櫓などが建ち並び大阪城と並び称される豪華な桃山建築の粋を集めている。以後いろんな歴史を有しているが寛永一四年に島原の乱がおこった折、一揆がこの城に籠るのを恐れもた幕府軍が、石垣の要所を破壊し井戸も埋め、城は廃墟と化した。この名護屋城跡と諸侯の陣跡は、昭和三十年、国の特別史跡に指定された。日本百名城に指定されている。
長崎県の自然景観。日本列島の最西端に位置する長崎県は、二っの国立公園、二つの国定公園、六つの県立自然公園に象徴されるように、多くの半島と壱岐・対馬、五島列島はじめとする約六百の島々によって屈曲の多い海岸線を描きだしている。豊かな自然景観に恵まれた国内でも有数の観光地である。・「野母崎、夫婦岩の夕日」・「百万ドルの夜景・長崎」・「雲仙地獄」「雲仙つつじ」・「絹笠山麓にある白雲の池」・「野田浜」・「九十九島」、西海国立公園を代表する百七〇からなる多島海(佐世保市)・「若松瀬戸の夕日」・「平戸大橋」「平戸市の常燈の鼻」「白亜の大瀬崎灯台を中心に20キロに及ぶ断崖が続く大瀬崎断崖」「壱岐・対馬国定公園の中心部に位置するリアス式海岸線をもつ浅芽湾」等々多くの見どころがあります。祭りも異国情緒あふれる趣向が特色の種々の祭りが多い。「長崎くんち」。「龍踊り」「鯨の潮吹き」「平戸ジャンガラ」「おくんち佐世保まつり」「チャンココ踊り」などがありますよ
・長崎市とその周辺。
・平和記念象(天をさした右手は原爆の脅威。水平ののばした左手は平和を、かるくとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っています。(原爆公園)
明の僧・超然が開いたわが国最古の崇福寺山門。
・諫早市とその周辺・眼鏡橋。十二代藩主によって木明川に架けられた双円のアーチ式石橋
昭和六三年に諫早公園内に移築された。(・眼鏡橋・寛永一一年当時来日して興福寺住職となった名僧如定によって、市の中央を流れる中島橋に架けられた橋、アーチ式石橋として日本最古のもの重要文化財に指定されている。昭和五七の長崎大水害で半壊したが、その後の修復作業により見事に復元した)
・雲仙と島原。雲仙の歴史は古く、奈良時代の名僧行基がこの地に山岳仏教の端をなしたといわれる温泉山満明寺を建立、寺院の繁栄とともに寺院の山号温泉山がこの地の総称となった。時代が寛永のころには、噴出する地獄の熱湯がキリシタン弾圧の責具に使われたた記録が残っているが、温泉として利用されたかどうかは疑わしく、いわばこれが雲仙温泉の前史時代である。温泉郷としての開発は、承応二年に古湯が開湯したのに始まり、次いで享保一六年に小地獄が開湯されて南温泉と称した。このころ、文人墨客が多くここに遊び「雲仙」の与えたという。これが“雲仙”の始まりである。そのうち、他の温泉と区別するため、いつか雲仙の呼称が一般化した。明治になると外国人の湯客の訪れも多くなり、同一一年に地獄地帯に新湯を開湯しこれが今日の雲仙温泉の中心となすにいたったものです。当時新湯には、日本人と外国人との混浴を避けるため、洋人風呂と称する一人用の箱風呂も設けられたということである。(郷土資料事典より)
・雲仙の地獄めぐり。新湯の周りには、地獄と呼ばれる硫気孔が大小三十余あり、いずれも熱湯を噴き出している。地獄にはそれぞれの名前が付けられている、その一つ一つの由来を求めて地獄めぐりも、雲仙観光の欠かせないものです。例えば、音のないのが立聞地獄、ゴウゴウと音を立てるのが大叫喚地獄、湯玉が二つ並んでいるのが兄弟地獄、毒婦お糸の処刑の時噴き出したといわれるお糸地獄、ほかにも清七地獄、八万地獄、賽の河原地獄などがあり、いかにも曰くありげな地獄群をなしている。
・島原城。元和二年、松倉重政が築いた島原城。蓮の花咲く濠と苔がしみついた石垣
・佐世保市と大村湾沿岸
佐世保から大村、西彼杵半島にかけて旧日本軍が軍事基地を置き、長い間ベールに閉ざされていた。そのベールがさられた時、人々は文明に毒されることなく、修久の昔から伝えられて自然の神秘を発見した、その素朴な海や山の姿は、忘れかけていた自然の美しさを思い起させてくれる貴重な国民の財産ともいえる。海の国立公園“西海”の代表的な景勝地、神々の伝説を秘める九十九島日本最大級のテーマパーク、ハウステンボスや西海橋などの観光都市として発展しつづけている。
・伊ノ浦瀬戸(針尾瀬戸)大村湾に立ち塞がる針尾島によって、東西に二つの狭い急流がつくられ、東の瀬戸を早岐瀬戸、西の方を伊ノ浦瀬戸、または針尾瀬戸と呼んでいる。伊ノ瀬瀬戸は、日本三大急流の一つに数えられ、干潮時には、広い大村湾の海水が一時に流れだし最大落差一・五㍍、速さ十㍍にも達し、まるで渦を巻きながら走り流れているさまは、瀬との渦潮に匹敵するぐらい見事さです。毎年三月下旬から四月上旬にかけて三日間西海橋一帯で観潮会が開催されます。
西海橋。日本三大急潮の一つ、伊ノ浦瀬戸をまたいで西彼杵半島と針尾島を結ぶ長さ三一六㍍余のアーチ式鉄橋で高さ四三㍍、幅七・五㍍で佐世保・長崎を結ぶ両市を結ぶ産業道路として架けられた。海の色にも染まらず、くっきりと白銀の弧を描いて、その美しさは多くの観光客を魅了している。
・黒崎教会。二十一年もかけて建てられた赤レンガ造りの天主堂。
・佐世保の玄関を飾るシンボルとして親しまれている三浦カトリック教会昭和五年に現地に
移転した。
・初代藩主大村喜前によって創建された本経寺、歴代藩主の墓碑群がある。
・一七世紀のオランダの街並みを再現した長崎オランダ村
・松浦市と平戸周辺。
松浦市はかって玄界灘を中心に活躍した「松浦党」の発祥の地でかって元冠の折活躍したほか、壇ノ浦の戦いに参戦し、鎌倉幕府開設に大きな役割を果たした。この時代から日本の海外への窓口としての役割を果たし平戸は、そののちも、キリスト教の布教、オランダ貿易の海外文化の取入れ口としての性格を失わなかった。平戸、松浦は歴史的な観光地の多いところである。
・フランシスコ・ザビエル記念聖堂、・宮原キリシタン墓地・オランダ堀
・浦上天主堂。
長崎県長崎市にあるキリスト教(カトリック)の教会及びその聖堂。旧称浦上天主堂の名で知られており、長崎市の観光名所のひとつにもなっている。
・ハウステンボス。
長崎県佐世保市にある、オランダの街並みを再現したテーマパークです。広さは約152万㎡、四季折々に日本最多、九州最大の美しい花々と出会えます。映画ロケなどにもよく使われる。世界最大級のイルミネーションを誇り、1100万球超の光の王国・チューリップ祭り・大胡蝶蘭展・世界花火師競技会、長崎ランタンフェスティバル等、どれも日本最大級のイベントがおこなわれます
・展海峰。
佐世保市にある展望台で、九十九島や、遊覧船「海王」を眺める事ができる、花の名所で、春は15万株の菜の花が、秋は15万株のコスモスが咲き乱れるビューポイントです
・大浦天主堂。
長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で日本最古の現存するキリスト教建築物、正式名称は日本二十六聖殉教者堂です。1953年(昭和28年)国宝に指定、2007年(平成19年)ユネスコの世界遺産暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する文化財の一つです。
・グラバー園。
国指定重要文化財グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を中心に、明治期の六つの洋館を移築復元したもので、園内は異国情緒あふれる観光名所として多くの人々に親しまれ、年間100万人以上の観光客が訪れています。
グラバー園 龍踊り
・長崎八夕揚げ。
長崎くんち、精霊流し(しょうろうながし)と並んでの、長崎三大行事の一つ、高く上げるのではなく、他のハタ(凧)と掛け合って相手のハタを切る合戦
・精霊流し。(しょうろうながし)
長崎県の各地、熊本県の一部及び佐賀市でお盆に行われる死者の魂を弔って送る行事のことです。
・長崎くんち・龍踊り。
長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭、その昔、二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納した事が始まりとされている。
・長崎ランタン祭り。
長崎市で行われるイベントで華人が旧正月を祝う祭りを春節祭という祭りが長崎市全体での祭りとなりいたる所に提灯(ランタン)が飾られ、新地中華街を中心に1万個以上のランタン等が飾られる旧正月祭りです。
・ピードロ(ガラス細工)
瑠璃色が美しい長崎ちろり・伝統ガラスべっ甲細工、長崎から全国に広まったべっ甲細工
・卓袱料理。(しっぽくりょうり)
中華料理や西欧料理が日本化した宴会料理の一種。大皿に盛られたコース料理を円卓を囲んで味わう形式をもつ、和食、中華、洋食の要素がお互いに交じり合っている。(和華欄ーわからんりょうりとも評される)
・平和公園。
長崎県長崎市松山町に位置する原爆犠牲者の冥福と平和を願う平和公園
・天草五橋。
九州本土と天草諸島を結ぶ橋で1号橋(天門橋)・2号橋(大矢野橋)3号橋(中の橋)・4号橋(前島橋)・5号橋(松島橋)の5つの橋で結ばれている。
・唐人屋敷跡。
江戸時代に長崎に設置された中国人住居地域。鎖国政策によって出来た唐人屋敷街。
・崇福寺。
長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院で、大雄宝殿と第一峰門は国宝建築です。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。中国様式の寺院として日本最古のものです。福建省出身者の門信徒に多い。
・七ツ釜鍾乳洞.西海町七ツ釜、町の南西部七ツ釜にある鍾乳洞で、洞の入口は高さ一・八㍍、幅約一・五㍍、入口から約五五㍍奥には高さ九㍍の清水滝があり、さらに奥へ行くと、白宮殿と呼ばれる広さ八畳ほどの広間があり、自然によってつくられた鍾乳洞の芸術ともいうべき珍しい風景が展開している。夏季には涼を求める観光客でにぎわう。
長崎県・五島列島
五島列島。長崎県本土の西、東シナ海にあって、本土との間に五島灘をはさんで、日本の最も西の島々である。古くは、宇久・中通・若松・奈留・福江を“五島”とよんだが、今は行政的な意味もあって宇久島の代わりに久賀島を入れている。なお奈留島までを上五島、久賀島以南を下五島ともよんでいる。これらの島を囲んで、大小一五〇余の島があり、その大部分が西海国立公園に含まれている。そして、いたるところに島と海食断崖と溺れ谷で織りなす海洋美が見られる。上五島は、山が重なって平地が少なく、下五島は平地が多い、山はホマーチ(白状火山)で、島々の間はせまく、長い瀬戸となって、海岸線は屈曲に富んでいる。周りの海は魚の種類も多く、釣りに絶好なところが多い。島と島は連絡船によって結ばれ、九州本土からの玄関口としては、宇久・有川・奈良尾・福江などの港があり、福江・小値賀からは長崎・福岡へ空の便も運航するようになって、五島を訪れる観光客も増えている。福江島には五つの行政区分があり、福江市が文化・経済・交通および観光の拠点になっている
・頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)
長崎県南松浦郡新上五島町にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂です。五島列島最東端で幕末までは無人島であつた頭ヶ島に建てられた小規模の教会ですが、西日本唯一のまた日本全国でも珍しい石堂の教会堂です。国の重要文化財、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つです。(堂内の装飾が非常に美しい教会です。)
・堂崎天主堂(どうざきてんしゅどう)
長崎県五島市の福江島にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂です。キリスト教禁教令廃止後、五島列島で最初に建てられた聖堂で1974年(昭和49年)に堂崎教会の名称で長崎県指定有形文化財に指定。現在堂崎天主堂キリスタン資料館として活用されている。(五島列島内には多くの教会が有ります)
・海童神社(十七日祭り)
長崎県南松浦郡上五頭町にある神社。鯨のアゴ骨の鳥居で有名な神社で、3年続けて溺れ死ぬ者があり、石詞を建てて祭り、即席の「にわか芝居」など奉納したのが始まりで今では7月第4日曜日にお祭りが行われている。
・あこう樹 (奈良尾神社)
樹齢650年を超す巨木あこうの樹としては、日本で唯一の国指定天然記念物根っこが二股に分かれ、両足で地面を踏ん張っているような姿をしています。
・大瀬崎灯台
九州本土最西端に位置し、九州本土で最後に夕陽が沈むところとして知られ激しい風雨、波に打たれ侵食された断崖絶壁は壮大、圧巻です。晴れた日には展望台から男女群島が見えます(東宝映画「悪人」のロケ地他)
大瀬崎灯台
・小値賀の島々。島々をとりまく島々は、それぞれ西海国立公園区域に指定され、景勝地として知られている。小値賀島は町の中心で、面積一三・一平方㌔、玄武岩の低平な台地の上に、番岳・本城岳などの白状火山をのせ、島全体がきわめて特異な形状をなしている。島内はほとんど草原状を示し、町内にいたるところで放牧がおこなわれ、一面に芝生がはえのどかな田園風景をかもし出している。
・若松大橋。中通島と若松島の間を結ぶ橋全長五二二㍍、幅六・三㍍の三径間連続トラス橋で、平成三年九月に完成した。若松島側には龍観山展望台があり、美しい眺めを楽しめる。
・福江市。福江市は、五島列島の南の端、福江島と・久賀島・椛島およびその他の小島からなる、列島唯一の市で昭和二十九年四月に市制が施行され、五島の政治、経済、教育・文化・交通の中心地です。市街地―福江地区は、昔は深江と呼ばれかって五島氏一万二千六百石の城下町として四百八十年の繁栄を誇ったところである。元中五年、深江に入った宇久勝は、大津辰ノ口に館を構えろとともに五島氏を名乗り、城下町を整備してその基盤を築いた。明治維新、第二世界大戦を切り抜けるも、昭和三十七年の大火に見舞われその大部分を焼失し、今はわずかに石田城跡と武家屋敷街に、往時の面影を残すだけである。大火後は、道路計画を中心に近代的都市として復興し、また同三八には福江空港も完成して五島列島の空と海の玄関口になった。
・男女群島。福江市浜町、福江港から南南西約八十㌔、東シナ海に浮かぶ小群島で、北から男島・クロキ島・中ノ島(寄島)・ハナグリ島・女島の五島からなる。ここは対馬暖流の進路にあたって、周辺は豊富な漁場をなし、サンゴの産地ともなっている。男島南岸の真浦には常住人口はないが、漁港・倉庫の施設があり、女島南端の断崖上には灯台が立っている。
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長崎県・壱岐 ・対馬
壱岐・対馬。この二つの離島はともに日本と朝鮮との間に飛石のように並び、昔から海路の要塞をなし、それぞれ壱岐国・対馬国として西海道十一ヶ国の一つに数えられていた。しかし、この二つの島には共通点あるが、相違点もまた多い。すでに「魏志偉人伝」に記されているように、その地形である。壱岐は平地が多く、農業が発達し、対馬は山が険しく平地が少ない。その他、歴史的な違いや九州本土との距離的な違いなどもあって、島のもつ雰囲気は違った点が多い。しかし現在は壱岐対馬国定公園としてたくさんの観光客を迎え入れている。
・鬼の足跡。
壱岐を代表する景観で、地元では大鬼のデイが鯨をすくい捕るために踏ん張ってできた足跡で「鬼の足跡」と呼ばれている。
・蛇ヶ谷。(じゃがだに)
勝本層の垂直節理が波によって侵食されて広がり数十メートルの断崖になって男性的でダイナミックな表情を成している。
・男嶽神社の石猿群。(おんだけじんじゃ)
拝殿横の石段には200体を超す石猿が並んでいる
・猿 岩。
黒崎半島のさらに先端の高さ45mの海蝕崖の玄武岩。そっぽを向いたサルにそっくり自然の力で造形されたことに驚かされる。
・はらほげ地蔵。
六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・人)において衆生の苦患を救うという六種の地蔵である。海女(あま)で有名な八幡浦の海中に祀られている
鬼の足跡 じゃがだに 猿岩
・ツシマヤマネコ。
対馬だけに生息する野生のネコで、約10万年前に当時陸続きであった大陸から渡って来たと考えられ、ベンガルヤマネコの亜種とされています。環境省の発表で「絶滅危惧1A類」とされ、最も絶滅の恐れが高い種の一つです。
万関橋
・琴の大銀杏。
長崎県対馬市上対馬町琴(きん)の長松寺にある巨木、樹齢千五百年といわれる日本最古の銀杏で、対馬の親木で「琴の銀杏の木は対馬の親木」と地つき唄に唄われている
・万関橋。
対馬島の上島と下島の境に架かる橋でここより北部を上島、南部を下島という。干潮時に渦巻く潮流は圧巻です。現在の橋は1996年に架けられた三代目
・豆酘崎灯台(つつざきとうだい)
長崎県対馬の豆酘崎南端に立つ灯台で、東シナ海を眺望でき、周辺は対馬国定公園に指定されている
火の国阿蘇で象徴される熊本県は、太陽と海と濃い緑につつまれた国で往古“火の国”と呼ばれたのち肥後国となったが、火の国の名の起こりは阿蘇の人、海上に光る不知火から出たのだという。九州のほぼ中央部に位置し、北部に筑肥山地、北東部に阿蘇火山、南に九州山地西部に天草諸島の山地が開け、標高一千㍍以上の山が四二を数える。。これらの山地の間を菊池川・白川・緑川・球磨川が流れ、また島原湾・八代海側に熊野平野と八代平野が開け、菊池市を中心に菊池平野・人吉市をとりまいて人吉盆地がある。自然景観も県の北東部には熊本を象徴する火の山阿蘇五岳、南には烏帽子岳や市房山などの険しい山々が連なる九山地や白川・緑川・球磨川・などの流れや、人吉盆地等、また島原湾・八代海側には熊本平野や八代平野が開け、西方海上には天草諸島が浮かび、太陽と海と緑に包まれた美しい自然環境を呈し見どころが沢山あります。
一例・阿蘇五岳・阿蘇米塚・仙酔峡・五木山の紅葉・笹越峠・妙見浦・一房山の雲海・菊池渓谷・球磨川のくま川下り・白水の滝・熊本城・水前寺成趣園・通潤橋・六殿宮の楼門・蓮華院誕生寺奥の院の五重の塔・仙酔峡・岩奥集落の山村風景・人吉城大手門・五家荘樅木のつり橋・大江天主堂・天草五橋等々多くの見どころがあります。
・熊本城
熊本県熊本市にある日本三名城の一つ、加藤清正が慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけ築城した名城で、実戦を想定した巨大要塞である。当時、大小天守閣や櫓49櫓門18、その他の城門29を備え自然の地形を巧みに利用した石垣など敵に備える事万全とされた。
(清正流石垣)(現在大修復中)
・旧第五高等中学校本館・化学実験場・表門。熊本城の北東約二㌔、熊本大学の構内にある。山口半六・久留正道の両市がイギリスのフィーン・アン様式にならって設計、明治二二年に構築したもので、正面と、その奥に建つ本館および科学実験場が国の重要文化財に指定されている。いずれも洋風赤レンガ造り、屋根桟瓦葺の建物で、基礎を無数の栗石で固めた堅牢さを誇り、明治二十三年の大地震にも大きな損傷はみられず、今日でも十分使用できる。
(世界遺産に登録される)
・山鹿灯篭まつり
山鹿最大の夏祭りで、2日間に渡り「奉納灯篭」「花火大会」「たいまつ行列」など圧巻は「よへほ節」の調べにあわせ、頭上に灯篭を載せた女性達が優雅に舞い踊る「千人灯篭踊り」で、見る人を幻想的な世界に誘います。
山鹿灯篭まつり 犬子瓢箪まつり
通潤橋 辛子レンコン
・阿蘇山。世界一のカルデラを誇る阿蘇山。九州のほぼ中央部、霧島火山帯北部に位置する複式火山の総称。世界的にも有名な活火山.そのカルデラ内は、噴煙をあげる中央火口丘のほか山中の各所に湧く温泉、白川・黒川がつくり出す渓谷美、外輪山麓にひろがる高原地帯など、自然の景勝に恵まれ、大部分の地帯が阿蘇くじゅう国立公園にふくまれている、年中観光客の足が絶えない。見どころは、有名な阿蘇山をはじめ、草千里ヶ浜・阿蘇火山博物館などがあり、阿蘇のすそ野に広がる阿蘇クマ牧場・十二支苑は家族ずれを集めている。
・大観峰。阿蘇町、阿蘇内牧温泉の北東国道212号線沿い東側に盛り上がる阿蘇外輪山の一峰。昔は遠見ヶ鼻と呼ばれていたが、徳富蘇峰によってこの名が付けられた。阿蘇五岳の好展望所お知られ、ここから見渡し阿蘇中央火口丘岳は、東端の根子岳を頭に、高岳を胸、忠岳を腹、西端の往生岳・杵島岳を足に見立てると、仏の寝姿によく似ている。この左手には、大分県側の九重連山が遠望できる。また朝晩、脚下の阿蘇谷をおおいつくす雲海が素晴らしい、頂上近くに高浜虚子の句碑、吉井勇の歌碑がある。
八代市。芦北海岸の北寄りに位置しする八代市は、近世、肥後藩細川家の重臣松井氏の城下町として発展したところ。古社寺・旧跡が多く、思い思いの歴史散策が楽しめる。宮崎県との境には、国定公園地区に指定された九州中央山地の山々がそびえたつ。八代市で八色海に注ぐ球磨川は、豪快な川下りが遊船で名高く、その上流の人吉市は、鎌倉時代、肥後南部に威を張った相良氏の本拠として知られている。高田焼(八代焼)・妙見祭りも楽しんでみよう。
・湯の鶴七滝。水俣市、湯の鶴温泉の東約二㌔、湯出川支流の芦刈川の上流に連続してかかる滝。大滝・小滝・箱滝・のれん滝などがあり、木々におおわれた岩壁を、しぶきをあげ、すべるように落ちる眺めは壮観。格好のハイキング地として親しまれている。大滝の近くには“鬼の在石”と呼ぶ。昔鬼が家を建てる材料にしようとした、という伝説がまつわる柱状節理の奇岩がある。新緑のころ、秋の紅葉ともそれぞれによいところである。
・球泉洞。球磨村大瀬。球泉洞駅の北約一・二㌔、球磨川の“槍倒しの瀬”と呼ばれる流れの上方、右岸にそそり立つ大岩壁にある。昭和五十年、一般観光向きの設備か整えられ鍾乳洞で自然の造形の妙を見せている、神秘的な地底の世界を展開している。
・人吉城跡。人吉市、人吉駅の南東、球磨川の左岸に臨む高台にある。築城年代は明らかでないが、平安末期のころには、平頼盛の家臣矢瀬主馬佑が人吉に居城していたという。城の城郭は焼失後再建されるも、明治時代に払い下げられ現存しないが、近世初期に築かれて本丸石垣や石段、古井戸などが歴然と残り、昔をしのばせることが出来る。石垣の武者返しは熊本城の反り返しと違い、最上部に横石を突きだしてあり、わが国最初の洋式城郭とされる、北海道函館の五稜郭のそれとよく似た構造がとられていて珍しい。
・球磨川下り。球磨川は、熊本・宮崎両県境にそびえる、市房山・江代山付近に源を発し、人吉盆地を貫流して八代海に注ぐ。流路延長約一一四㌔、最上川・富士川とともに、日本三大急流に数えられる。川下り遊船で人吉市の水の子手橋際にある乗船場から球磨村渡りまでのコースと渡りから球泉洞下りまでのコースの二つのコースがある。途中熊太郎の瀬・網場の瀬などと呼ぶ難所・奇勝が連続し、しぶきをあびながらの川下りはスリル満点。運航時期に注意。
人吉市の郷土芸能。臼太鼓祭り・錫杖踊り・俵祭りを観賞するのも楽しいでしょう。/
・鹿目の滝。人吉市鹿目町、人吉駅の南西鹿目川の上流にある。高さ約三六㍍。整然とした柱状節理をみせる岩壁と、水量豊かな雄滝と、白糸のような雌滝が並び落ちている。清水に新緑が映える春、紅葉のころともによく、滝祭りにはソーメン流しが行われ、涼を求める人々でにぎわう。ここから歩いて四十分ほど奥に浄瑠璃で有名な“又五郎屋敷”がある。
天草は九州の西部に位置し、大矢野島・天草上島・下島など大小約一二〇の島々からなり東と南は八代海、北は島原湾、西は外海の荒波が打ち寄せる天草灘に面している。明るくのどかな海洋風景が展開する、近世初期、天草の乱(島原の乱)の舞台となったことではよく知られ、隠れキリシタンの哀話を秘めた遺跡が残存し、昔ながらの素朴な風物もよく伝えられている。天草後五橋によって九州本土と結ばれ、長崎と熊本・南九州と結ぶルートの中継地になっていて、行楽客の訪れが多い。八代・水俣・島原を訪れるのもよしですよ。.大矢野島の西方、島原湾に浮かぶ湯島は盆をふせたような島、海岸線沿いにはビロウ・アコウといった亜熱帯植物の群生が見られる。寛永年間に天草の乱の時、天草と島原の一揆勢がここに寄り合天草四郎時貞を囲んで密談したといわれ、“談合島”とも呼ばれている。島の頂にその記念碑が立っている
・大矢野城跡。大矢野島のほぼ中央部、国道から少し東へ入ったところにある。築城年代は明らかでないが、鎌倉時代の初期、士豪大矢野氏の構築と伝えられている。筑前の豪族原田氏の末流といわれ、弘安四年の元寇の役の際、大矢野十郎種保・同三郎種村の兄弟が、博多湾に出陣して活躍したことが史実に見える。現在、城跡は大矢野中学の構内になっており、土塁・堀の一部が遺存する。一隅に「護国双璧」と刻んだ碑と大矢野累代の墓という五輪石塔群が残っている。
・天草松島。松島町、大矢野島と天草上島のあいだに散在する前島・瀬島・永浦島・樋合島・高杢島など、約三〇の島の総称、宮城県の松島にその風光が似ているところからこの名がある。地元では宮城松島、長崎の九十九島とともに、日本三大松島の一つといっている。また天草五橋の中の四橋が、この天草松島に架けられている。遊覧船や展望台からの眺めも楽しめます。
天草松島の好展望台として知られる、千巌山・高舞登山・龍ヶ岳も行ってみよう。
・天草海中公園。天草下島の西海岸にある。昭和四五年わが国最初に指定された海中公園で、富岡・天草・牛深の三地区に分かれている。富岡地区の富岡半島西岸一帯は、熱帯経の魚類・海草・石サンゴ類が豊富。天草地区の大ヶ瀬は、海上景観に優れている、牛深地区の築の島瀬戸はトサカ類・イソバナなどが、見事な海中のお花畑をつくっている。牛深港からは船底をガラス張りにしたグラスボートが出ており、神秘的な海中の世界を間近に観察が出来る。富岡西海岸には、波打際をゆく遊歩道が開けて、六月~八月下旬には白岩崎にキャンプ場が開設され、天草の夏を楽しめます。
・妙見浦。天草町下田南、下田温泉付近から、南の高浜港の北西に突き出た十三仏崎へいたる、延長約五㌔の海岸一帯をいい、熊本県の代表的景勝地で、五〇㍍から一〇〇㍍近い断崖が継続し、沖には長ハエ・妙見洞門などの島礁が散在して、紺碧の海と、荒々しい岩肌を木々の緑が見事な調和を見せている。妙見洞門は長さ五〇㍍、幅一〇㍍、高さ二〇㍍、小舟で通りぬけれる、国指定の名勝・天然記念物である。
可浦町。天草諸島の南西より、町は天草五人衆の一人、天草氏の所領として開かれたところ。室町末期には、天草キリシタンの一根拠地として繁栄した。見どころは崇円寺・崎津天主堂・天草学林跡といった古寺・旧跡がある。
・龍仙島。牛深市、牛深港の南西海上六㌔余に浮かぶ小島で一名片島ともいう。第三紀の砂岩と礫岩からなり、断層・節理が発達し、その節理面・断層面に沿って海食・風食が進み、多くの石柱・石門・洞窟がつくられ“龍宮宮の同窟”“マタグラ岩”などと名付けられた奇勝が展開され、国の天然記念物および名勝に指定されている。
鶴見岳 原尻の滝
羅漢寺
九重連山
・湯布院ハーブワールド鹿児島県
・仙巌園(磯公園)
島津家第19代光久が別邸として造った庭園(1658年)、奇岩奇石が多く配置され、中国龍虎山の仙巌に似ている事から「仙巌園」と名付けられている。その後一部建て替えられ今日に至っている。桜島や錦江湾などが築山や池に見立てており、また日本初のガス燈(鶴灯篭)琉球王国からの望獄楼などもあり歴史の宝庫の庭園で国の名勝に指定さえている。
・出水市のツル
鹿児島県出水市荒崎のツルは渡来羽数と種類の多い事で知られている、(約1万羽)天然記念物及び禁猟区の指定更に「特別天然記念物鹿児島県のツルおよびその渡来地」として指定を受けている。
・いさぶろう号・しんぺい号
霧島連山を望む絶景を楽しみながらスイッバックなど、鉄道の壮大な峠越えを体感できる観光列車です。
・吹上浜砂の祭典
鹿児島県南さつま市で行われる砂の祭典、日本三大砂丘の一つ吹上浜砂丘で、行われる砂の祭典、人づくり・地域づくり・地域おこしの祭典。
吹上マスコット
・蒲生の大楠
鹿児島県姶良市蒲生町蒲生八幡神社境内にそびえ立つ大楠です。樹齢約1,500年、根回り33,5m 高さ約30mと、環境庁が昭和3年に実施した巨樹・巨木調査で、正真正銘の日本一に認定された大楠です。
・せっぺとべ
鹿児島県日置市日吉町八幡神社、吉利鬼丸神社で行われる文禄4年から日吉地域に伝わる「お田植え祭り」で、若い衆が田の中で円陣を組み、酒を飲み唄を唄いながら勢いよく飛び跳ねます。この祭りには土をこねる足踏み耕の意味と害虫を踏み潰し意味があり、泥にまみれて今年一年の豊作を祈願いたします。
・西郷隆盛の終焉の地
鹿児島県城山町にある、明治10年(1877)9月24日、西南戦争の最終末にあたり西郷隆盛以下幹部が自刃ないし戦死したところ。
・開 聞 岳
鹿児島県指宿市薩摩半島の南端に位置しする標高924mの火山です。日本百名山、新日本百名山九州百名山に選定されている。見事な円錐形の山容から別名薩摩富士とも言われている
・佐 多 岬
鹿児島県肝属郡大隅町、九州本土最南端北緯31度線上に位置し、南端の断崖から沖の大輪島に日本最古の一つ佐多岬灯台があります。
・弥五郎どん祭り
鹿児島県曾於市で毎年11月3日、900年の伝統を持つ「県下三大祭」の一つ弥五郎どんは身の丈4m85cm、25反もの梅染めの衣を身に纏っています。祭りの見どころは岩川八幡神社から市街地を威風堂々と練り歩く「浜下り」です
ガジュマル 縄文杉 紀元杉
・ヤクシマザル。屋久島に固有のニホンザルの亜種。ヤクザルとも呼ばれる。体長45-60Cm.ホントザルより小型でずんぐりで、手足が黒く、体毛はやや長く太くまばらで灰色を帯びる。オスの成体は頭の毛が中央から左右に分かれ、メスは2年に一度1頭の子どもを生む。一つの群れの頭数は50頭以下
・永田いなか浜。海がめが産卵に訪れる(5月~7月)水平線に沈む夕陽や、星空も素晴らしい~。
・大川の滝(おおこのたき)日本の滝百選に選定されている。落差は88m、海岸から近く、滝の近くには日本名水百選に選定されている大川涌水がある。
・平内海中温泉。干潮の前後2時間くらいが入浴可能で、満潮になると温泉が水面下になるため入浴不可になります、男女混浴ですが昔ながらの趣や風情を楽しめます。満天の星を眺めながらの入浴は最高ですよ。
・悪石島・仮面神ボゼ。トカラ列島の悪石島に伝わる来訪神行事で、奇祭として知られており1989年(平成元年)に、指定名称十島村悪石島の盆踊りとして、鹿児島県の無形民俗文化財に指定されている。
・久米島・畳石。久米島の東側海岸線に見られる、溶岩が冷え固まって出きる現象で亀の甲羅のように並んでおり、干潮時に行くとより見やすく、みる海も素晴らしいですよ
ヤクシマザル 大川の滝 平内海中温泉
・与論島・百合ヶ浜。島の東側にある、大金久海岸の沖合い1.5kmの場所に春から夏にかけて大潮の干潮の時間帯にその姿を現す、幻の白い砂浜です。
・与路島。島には集落一つ、一つの村で、学校も一つがある。昔ながらのサンゴの石垣が南国気分をかきたて、静かに時の流れを味わえますよ。
・加計呂麻島。西阿室海岸の夕日は素晴らしく一見の価値あり、最後の楽園と賞賛する人も多い
・宝 島。トカラ列島の有人島では南端で、隆起したサンゴ礁でできたハート形をした島です昔イギリスの海賊、キャプテンキッドが財宝を隠したという伝えがあります。歴史的にみても、宝物というネーミングにふさわしいロマンあふれるしまです。また、サンゴ礁に囲まれた海、白い砂浜、素晴らしい美しさを味わってください。 (観音洞・この鍾乳洞にキャプテンキッドが財宝を隠したとか。。。。?ですね、ハブにご注意を)
与路島 加計呂麻島・夕日 宝 島
・平 島 (たいらじま)。トカラ列島中央部に位置し、トカラに平家の落人が最初に流れ着いた地とも伝えられている。東部海岸の崖下には「平家の穴」と呼ばれる平家伝説ゆかりの洞窟がある。トカラ列島の中で、昔ながらの風俗が最も守られているおり、祭りなどもすべて旧暦で行われています。
・口之島 (くちのしま)。トカラ列島の北端に位置し、北北西ー南南東方向に延びた長径約7kmの火山島です。トカラ列島では数少ない角閃石安山岩~デイサイトからなり、溶岩ドームの集合した火山島です。口之島牛と見島牛が生息しています。
・黒 島。牛の島として有名な黒島、牛の数は3000頭を超える。畜産業に就く若者が多い、島最大の行事豊年祭りで行われる、パーレ(爬龍船)競漕が独特のもので、毎年2月に開催される、「牛まつり」には、多くの人たちが島を訪れます、牧場の緑の風景や黒島の海の美しさや、西の浜へウミガメが産卵に上陸してきますよ。
・硫黄島(いおうじま)薩南諸島北部に位置する島で、東西5.5km、南北4.0km、面積11.65k㎡114人の島人が住んでいる。竹島、黒島とあわせ、上三島(鹿児島郡三島村)を構成する鬼界カルデラの北縁に形成された火山島で、主峰の硫黄岳は常時噴煙を上げている硫黄のため島の周辺海域が黄色に変色している「黄海ヶ島」とも呼ばれる。
平島 硫黄島
・徳之島(とくのしま)。南西諸島の奄美群島に属する離島の1つです、島内んは鹿児島県大島郡徳之島町、伊仙町、天城町の3町がある。群島の中心に位置し、琉球と薩摩の影響を受けた歴史や独自の文化を持つ島です。農業が盛んで、特にサトウキビが多く生産されています。そのサトウキビが生み出す景観や、農業によって育まれた伝統文化や習慣、地質の違いから見られる海岸の様々な表情、天然記念物のアマミノクロウサギをはじめとする希少な動物や、徳之島にのみ生息する固有の動植物が存在することなどから「奄美・琉球」世界自然遺産登録候補地の1つです。
・金見崎ソテツトンネル。トンネル(遊歩道)の幅は140cmで、ソテツの群生林を潜り抜けていきます最終ポイントは金見崎灯台の見える展望台となっています、途中「徳之島サンゴセンター」があります。
・諏訪之瀬島 (すわのせじま)。トカラ列島に属する島で、十島村では中之島に次いで二番目に大きい島です。たびたび活発な噴火活動を見せる日本有数の安山質の活火山です。島の中央部には崩壊カルテラがありその中に中央口丘の御岳(おたけ)がある。1884年には御岳の火口から東海岸まで溶岩流を流下し現在でも御岳では桜島と同じく日常的に噴火が発生している
・小宝島(こだからじま)。トカラ列島に浮かぶ島で、宝島の北東約16kmにある隆起サンゴ礁でできた周囲4kmの小さな島です。アダンやソテツが生い茂り、ハイビスカスが咲き乱れる亜熱帯情緒あふれる島です。多くの奇岩が海岸線にそびえ立ち幻想的な景観を織りなしています。中でもウネ神、赤立神などは見ごたえがあります。
・中之島(ナカノシマ)。十島村で最大の島です。島の北部にはトカラ列島最高峰の御岳があり、その美しい山は「トカラ富士」とも呼ばれています。麓の高原ではトカラ馬(鹿児島県天然記念物)が放牧されています。近くには天文台もあり、素晴らしい天体ショーが観測できます。
・口永良部島(くちのえらぶじま)。長径12km最大幅5kmのひょうたん形の島です。古い火山体である西部の番屋ヶ峰と現在まで活動を続ける島の中央部から東部を構成する新岳・古岳・野池山などの火山体からなる島で、全域が屋久島国立公園となっている。温泉が豊富に出るほか、島の周辺はウヲ釣りのポイントも多く、1年を通じ観光客が訪れます。
・種子島。鉄砲伝来の島、ロケット発射の島、歴史と未来がおりなすロマンあふれる島、美しい自然が一杯の島、種子島へ一度は訪ねてみようよ。1969年(昭和44年)種子島宇宙センターが設立され、世界一美しいロケット発射場といわれています。人情あふれる人たちと、宇宙の果てに想いを巡らしませんか。
トカラ馬 永良部島 種子島宇宙センター
沖永良部島 ハイビスカス
・沖永良部島(おきのえらぶじま・おきえらぶじま)奄美諸島の南西部に位置し、和泊町と知名町2町からなる、人口13767人(2012年)サンゴ礁が隆起した島で、総延長日本第2位の洞窟大山水鏡洞をはじめ、大小200~300の洞窟の存在が判っています。「洞窟の聖地」です。当地の洞窟は広いホールのようになっており、綺麗な鍾乳石で、水量も多く「シャーワーケイビング」と呼ばれています。また西郷隆盛の流刑地でもありました。
・銀水洞(ぎんすいどう)大山の北西1200m、海抜125mに位置し、地下水の流れは田皆暗川に向かっている、洞内いたるところにプールが形成され入洞困難な洞窟です沖永良部島の一番美しい洞窟です。
奄美大島 東洋のガラパゴス
・あやまる岬.本島東北端の太平洋上に突き出た岬、奄美十景に数えられる景勝地です。岬からサンゴ礁の海を一望できます。「あやまる」の名の由来は、起伏するこんもりした丸い地形が綾織の鞠に似ていることから「あやまる岬」と呼ばれるようになった。
・金作原原生林 天然の亜熱帯広葉樹が多数が残っている原生林。生きた化石といわれる巨大なヒカゲヘゴなどの亜熱帯植物が茂り、国指定天然記念物のルリカケスなど希少な生物も生息しています。差し込む陽光も神秘的です。
・奄美野生生物保護センター.奄美群島の生きものや生態系を保全するために設立された環境省の施設生息状況の調査研究や、野生生物保護に対する理解や関心を深める等の総合的活動を行っている
・奄美フォレストポリス・マテリヤの森湯湾岳の麓に整備された森林公園、約30万平方米の敷地に亜熱帯植物が繁っています。園内にはフィールドアスレチックやバッテリーカーなどで遊べるゾーンやマテリヤの川が流れ水生植物が見られる水辺ゾーン他4っのゾーンに分かれており終日楽しめる
・黒潮の森マングローブパーク. 奄美市佐用町大字役勝にある総合公園で、奄美群島国定公園特別保護地区のマングローブ原生林が広がっており、マングローブ展望台から一望できます、またカヌーで楽しむことができます。
・西阿室海岸.奄美新民謡の「加計呂慕情」の舞台で知られる、西阿室に広がる海岸で、ここからの夕陽はバックンで、小島のあいだを沈んでいく光景は、またまた素晴らしい。
あやまる岬 奄美野生生物保護センター マテリヤの滝
喜界島
・ムチャ加那公園.ムチャカナ公園は小野集落群が見わたせる高台にあり、ウラトミ、ムチャ加那の哀しい人生を偲んで建立された、「ムチャ加那の碑」やウラトミの墓もある
・雁股の泉.保元の乱で敗れた源為朝が琉球に渡ろうとした際にシケに遭い、喜界島の沖合いを漂っているとき、島に人がいるかを確かめるのみ放った雁股の矢にちなむ泉。矢の刺さった場所から泉が湧いたとされている。
・僧俊寛の墓.俊寛僧都は、治承元年(1177年)京都鹿ヶ谷にて平清盛討謀議のかどで、鬼界島に流島、治承4年(1180年)赦免されることなく生涯を閉じる(喜界島)
・荒木・中里遊歩道.長い歳月にわたり波にうたれ、いろんな形をしたサンゴ礁のある遊歩道です。夕日の落ちる折の景観は心うたれる感動ものです。「夕日の散歩道」と呼ばれています
・中西公園.目の前にひろがるサンゴ礁の海岸線は変化に富み、砕ける波が、青い海が青い空が地平線までつづきまさに絶景です。
・阿伝集落のサンゴの石垣.奄美諸島に多いサンゴの石垣。現在はハブが棲みつくという理由で少なくなったがハブのいない喜界島の阿伝集落では、保存状態のよい石垣を見ることが出来ます。
ムチャ加那の墓 俊寛の墓 サンゴの石垣
宮崎県の自然景観。宮崎県は九州の南東部に位置し、面積は七七三三・六四平方キロ、九市二八町七村、九州で鹿児島県に次ぐ第二位の広さで全国では北海道を除き第一三位の広さで、県庁所在地は宮崎県。国立公園が一つ、国定公園が四つ、他にそれぞれの特色をもつ県立公園が随所にあり、豊富な観光資源を誇っている。霧島屋久国立公園地区は、霧島火山帯を主体とする国立公園で、韓国岳・高千穂峰をはじめとする高山が峰を連ね、火口湖が神秘の水をたたえ、中腹には広大なえびの高原が広がり、温泉が湧出している。北部には祖母傾国定公園も山岳公園であるが、ここの特色は祖母山・傾山の山肌を埋め尽くしている原生林と、高千穂峡などの美しい渓谷である。熱帯・亜熱帯樹が自生しする南部海岸の日南海岸国定公園は、南国宮崎の最も代表的な自然公園である。青島には二百数十種に及び熱帯・亜熱帯性植物が自生繁茂し、密林を形成している。またその周囲には“鬼の洗濯板”と呼ばれる奇状波食岩が露出して奇観を呈している。奇岩怪石の並ぶ海岸を南下すると、その南端に都井岬があり、ここには野性馬が群れ遊んでいる。主な見どころを羅列しますと(順不同)・都井岬の野性馬・堀切峠のフェニックス・鬼の洗濯板・韓国岳と霧氷・関之尾滝・関之尾の甌穴・生駒高原の春・日向岬の「馬ヶ背」・大斗の滝・深緑の高千穂峡・うのこの滝・九州山地の落日・西都原古墳群公園のコスモス等々数々の見どころが沢山あります。
・宮崎市。宮崎市は九州の南東端、宮崎県のほぼ中央の太平洋沿いに位置し、東京から西に約一四〇〇㌔、福岡から約四〇〇の地点です。市街地には、フェニックスで代表される亜熱帯樹がさんさんとふりそそぐ陽光にきらめきまるで街全体が大きな温室のようである。大淀川がゆったりとながれよりいっそう美しくひきたてている。また東部の、海岸は一つ葉浜を中心に、景勝の青島や日南海岸の北部を含め、延長四〇㌔にわたっている。このほか宮崎神宮・平和台・はにわ園などがあり南国情緒豊かな観光地として脚光を浴びている。
・西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)
宮崎県のほぼ中央にいちする西都市の南北を走る洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である
・青 島(あおしま)
宮崎県宮崎市の南東海岸にある周囲860m、面積4.4ha、高さ約6mの島,陸繋島になりつつある。規則的に重なった地層が緩やかな傾斜をなし階段状に侵食されており、巨大な洗濯板のような所から「鬼の洗濯板(岩)」と呼ばれる。
・日南フェニックスロード
宮崎市青島~串間市都井岬の海岸線を走る国道448・220号線は風光明媚なシーアイドロードでフェニックスヤシやハイビスカスが南国情緒をかもしだし日南フェニックスロードの愛称で呼ばれている。
・飫肥城(おびじょう)
宮崎県日南市にある日本の城で、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。2006年、日本百名城に選定された。
青島 日南フェニックスロード 弥五郎どん祭りパンフレット
・都井岬の御崎馬(みさきうま)
岬馬とも呼ばれる。高鍋藩秋月家によって元禄10年(1697年)福島地方現在の串間市)に設置された繁営牧場の一つが御崎牧(現在の都井岬)で開設以来今日まで300余年ものあいだ極めて租牧な周年放牧で飼育され、その繁殖は全く自然にまかされている。現存する日本在来馬(北海道和種、木曽馬、御崎馬、対州馬、トカラ馬,宮古馬、与那国馬)の一つで、昭和28年に純粋な日本在来馬として国の天然記念物に指定されました。
・都井岬。串間市都井、日南海岸の最南端に突き出た長さ四㌔余りの岬。平均標高は約三百㍍、芝生とスギの疎林をのせた台地がなだらかな起伏を見せて広がり、その山麓はおおむね急崖をなして海に落ち込んでいる。岬の先端に白亜の都井岬灯台がある。また、その南にソテツの自生林(特別天然記念物)があり、背後の丘陵上に野性のウマの群れが草をはぐくんで旅情をかきたてる。野猿も生息する。岬には先端までバス道路が延びています。
・黒ぢょか.(千代香)(ぢょか、じょか)
焼酎を温めるための扁平な土瓶で、鹿児島では「ちょか」ともいう。九州地方の鹿児島県、宮崎県でよく使われている。注ぎ口がイニシシに似ているので猪牙(ちょか)という説、酒瓶の中国読み「ちゅか」が 訛ってという説がある。千代香の黒いものは特に黒千代香と呼ばれている。・
県立平和台公園。宮崎市、市の北西の高台にあり、眼下に市街地、東に日向灘、西方はるかに霧島連山を望む。昭和十五年、皇紀二千六年を記念して、県民の労力奉仕によってできた八絋台を戦後公園化したもの。戦後八絋台の名は平和台に改められ、県立平和台公園として生まれ変わり、県民の格好の憩いの場となっている。塔の台石は、国内はもとより、世界各地から集められたもの。設計・正面の扉の彫刻は、彫刻の大家故日名子実三氏によるものです。・はにわ園(平和の塔の北側)にも立ち寄ってみましょう。
・万葉植物園。都城市、都城駅の東約二・五㌔、三股町との境界に近いところにある。園内には、万葉集にうたわれた植物、クレナイ・フジバカマなど一五〇種余りが植栽されており、その一本一本に和歌を書き付けた名札が付いている。市民の格好の憩いの場として親しまれている。
・関之尾の甌穴。都城市庄内、大淀川の支流庄内川の上流にある。ここの河床は亀甲岩といって、河床の岩盤一面に亀の甲を思わせるような亀裂が無数に走り、いたるところに甌穴がえぐられている。甌穴は岩盤の窪みにはいった小石や岩くずが、長年にわたり、川の流れでぐるぐる回りながら作り上げられたもので、なかには直径一㍍から三㍍深さ二㍍にも及ぶ大きなものがあって、その造化の妙に驚かされる。学術的にも貴重であり、昭和三年、天然記念物に指定された。
・関之尾の滝。甌穴は約六〇〇㍍にわたる大規模なもので、その数は千を越えており、末端は、高さ一八㍍、幅四十㍍の見事な関之尾滝となっている。ほかに男滝、女滝があり、三つの滝で構成されている。この一帯は、母智丘関ノ尾自然公園指定区域で、ツツジ・紅葉の名所として知られている。
・御池。高原町、高千穂峰の東腹にある。霧島山中では最大の火口湖です。回りを囲み火口壁は比較的低く周囲一帯は常緑広葉樹の美林に囲まれ、紺碧の水面にはピラミッド型の高千穂峰が影を落とし、まことに美しい眺めです。環境庁指定の野鳥の森になっている。
西都市を中心とする一帯は古墳地帯として知られている。なかでも西都原には三〇〇基に及ぶ古墳がるいるいとしてよこわたり、まるで古代を眼前に見る観がある。九州山地の奥地にある米良荘は、隣接の椎葉とともに秘境と知られている。
・高鍋城跡。(舞鶴公園)高鍋市街の西方にあり、古くは財部城といった。築城年代は明らかでないが、戦国期には伊東氏、次いで島津氏が領した。天正一五年の豊臣秀吉の九州統一後は、筑前秋月から秋月種長が三万石で入封。種長の孫の種信が延宝年間、城の大改修を施して近世城郭を完成させる。以後、高鍋藩秋月氏三万石の本拠として、明治維新に及んだ。現在は舞鶴公園とされており、展望台・花木園・高鍋町総合歴史資料館・児童遊具施設などがある。園内の一角に国指定天然記念物のクスの巨木がそびえている。
・矢研滝。都農町尾鈴、名賀川上流は尾鈴山麓で数条の支流に分かれ、石英斑岩の岩肌削っているが、それらの支流には、矢研・小矢研・若葉・千畳・峰ノ巣・えのは・白滝・朝霞・簾・紅葉などと名付けられた瀑布がかかっており、昭和一九年、文部省により「尾鈴瀑布群」の名称を冠せられた。これらの滝はそれぞれに趣を異にしている。このうち朝霞滝は国指定の名勝です。
・天ヶ城公園。高岡町、海抜一二二㍍の城山の山上にある。桜の名所として知られている。南方眼下に高岡の街並みや大淀川の流れを見晴らす眺望にも恵まれる。園路やさくら広場なども完備され、家族連れなどで賑わっている。国指定の天然記念物、香積の梅と呼ばれる、高岡の月知梅にも立ち寄ってみましょう。
沖縄県
沖縄を訪ねよう
・シーサー 。沖縄県などでみられる伝説の獣の像で、建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられる。家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置される ケースが多いとされる。名前は「獅子(しし)」(元はサンスクリット語のライオン、シンハー)を沖縄方言で発音したものです。 八重山諸島ではシーシーとも言います。
泡盛 ハイビスカス
・泡盛(あわもり)。主としてインディカ米を原料として黒麹菌を用いた米麹である黒麹によっ発酵させ、もろみを蒸留した琉球諸島産お蒸留酒である。乙類焼酎の一種です
・種子取祭(タナドゥイ)。竹富島で行われる祭りで、約600年の伝統があると言われており島の行事の中で最も盛大で、1977年に国の「重要無形民俗文化財」の指定をうけるー祓い清めた土地に種子(稲や栗)を蒔き始める祭りで毎年旧暦9月の庚寅、辛卯の2日間を中心に行われる。
・節祭(シチ)。西表島の祖納・千立地区で行われる節祭(シチ)は約500年前から伝承されたとされており1991年に国の「重要無形民俗文化財」の指定を受けている。節祭とは季節の折り目や年の折り目を意味し、この機にその年の豊作の感謝と五穀豊穣、健康と繁栄を祈願する祭りです。
・小浜島結願祭。神に願いをかけ、願いが叶った後、その願いを解く祈願の総まとめ的な祭りです。小浜島の結願祭は「節」と「結願」の2つが明治初期に1つになったとか、2008年に祭りの芸能が国の「重要無形民俗文化財」の指定を受けている。
・波照間島。ムシャーマ 旧暦7月14日(旧盆中の日)に、祖先を供養し、豊作と安全を祈願して行われる島最大の行事。波照間島の言葉で”面白い”ことを”ムッサハー”というがこれが転じて「ムシャーマ」になったともいわれる
・豊年祭。各島で行われる豊年祭りは、穀物の収穫を終え、無事に済んだことを神に報告・感謝し来年の豊作を祈願する祭りで旧暦の6月に各島で行われる。なかでも黒島の「ウーニ・パーレ競漕」という爬龍船による競漕は特徴的で、祭りの一番の見所でもあります。(ウーニー・選ばれた足の速い青年、パーレー・爬龍船)。
波照間島・ムシャーマ 爬龍船
・ホエールウォッチング沖縄。初めての方でも安心して楽しめる、クジラの楽園へ!大きな音とともに突然吹き上げるブローや、水しぶきをあげて海面をたたく野生のクジラのパフォーマンス、迫力満点、あなたも体験しませんか
・フナウサギパナタ。伊良部島の方言で「船を見送る岬」宮古島・池間島を一望できる展望台がある。伊良部島の壮大な海の景色が楽しめます
・水牛車。水牛車は竹富島観光の目玉で、赤瓦の家々や花々に彩られた白砂の道といった昔ながらの美しい町並みをガイドと三線の実演付で一周してくれます。
・粟 国 島。洞寺鍾乳洞公園(あぐにしま・てらしょうにゅうどう)石筍(せきじゅん)や石柱(せきちゅう)ヘリクタイトなど変化に富んだ地形が見られる地底鍾乳洞です
・渡名喜島。(となきしま)慶良間諸島最大の島で、県都那覇市の西方32kmの洋上に浮かぶ渡嘉敷島を中心に大小十余りの無人島を含め、19,23k㎡で形成されている島で、那覇市に最も近い本村には、人口約750人余が暮らしています。村営定期船、高速旅客船との2隻体制で毎日運航し、那覇(泊港)から短時間の船旅で訪れることが出きる。本島は、中央部から北側にかけ山々が連なり、その間のわずかな低地に渡嘉敷、阿波連、渡嘉志久の3集落がある、山の急斜面や絶壁が海に迫り、真っ白な美しい砂丘と七色に変わる海と陸地での田園風景が広がる素朴で人情味あふれる風光明媚な島です。
・伊平屋島(いへやじま)。沖縄県北部本部半島から北へ41kmに位置し最北端の細長い山地の島です。サトウキビと稲作が盛んで、沖縄では石垣島についで2番目の生産高を誇ります。島には「天の岩戸伝説」で知られる県指定の天然記念物のクマヤ洞窟や、樹齢300余年の琉球松の古木、念頭平松、山一面くばの木が生い茂り(日本名木100選)天然記念物久葉山があります。海の色はコバルトブルー、濃紺へと一見の価値充分。
・クヤマ洞窟。(天の岩戸)日本全国に数ある「天の岩戸伝説」の最南端の地徳川幕府時代の国学者・藤井貞幹は「神武天皇は、琉球の恵平屋島にご生誕あそばされたり」という説を唱え、同時代の高名な学者・本居宣長との大論争を引き起こす、この藤井説の根拠がクマヤ洞窟です。
伊平屋島 念頭平松 徳之島
琉球王国のグスク及び関連遺産群 (世界遺産) 遺産種別:文化遺産・登録年:2000年:登録基準:2・3・6。
2=建築、科学技術、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えたある期間にわたる価値観の交流またはある文化県内での価値観の交流を示すものである。
3=現存するか消滅しているかに関わらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
6=顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある
登録遺産面積・コアゾーン54.9ha バッファゾーン 559.7ha.
登録対象資産・玉陵、園比屋武御嶽石門、今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、斎場御嶽、首里城跡、識名園
行政区分。沖縄県:那覇市、うるま市、南城市、国頭郡今帰仁村、中頭郡読谷村、中頭郡北中城村、中城村、日本列島の南端・沖縄県に点在する「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」
・琉球王国が東南アジア、中国、朝鮮半島、日本と経済的・政治的・文化的交流をもっていたことがうかがえること
・グスク跡は、琉球王国の文化的伝統を伝える貴重な考古学的遺産であること。
・自然崇拝、先祖崇拝という沖縄伝統の信仰形態を今に伝えていることが評価され、2000年、文化遺産に登録されました。構成資産は上記登録対象資産
・グスクとは、 古琉球(ぐすく)時代の遺跡のことで、一般的には城(しろ)と訳されています。しかし、グスクの領域は全てが城でなく、温獄(うたき=聖地、拝所)の領域として拝所があり多くの参拝者が訪れていたようです。またグスクの城壁は、豊かさの象徴でしょうか、本土で見られるような直線でなく、地形に沿って美しい曲線を描いています。琉球王国は1429年の成立から琉球処分で沖縄県になるまでの450年にわたって中国、日本、朝鮮、東南アジア、諸国との和外交と交易で栄え、平和で豊かな国を築いて来ました、しかし1609年に薩摩藩に征服されて以降、1879年(明治12)に琉球処分で沖縄県とされ、戦時中は日本の捨石として地上戦の戦場にされ、戦後はアメリカ軍の基地がひしめく基地の島にと辛酸をなめさせられています。沖縄が再び、平和で豊かな島になること願っています。 (日本にある世界遺産より一部抜粋)
・首里城
現在の首里城は1992年に復元された建物で、14世紀に建てられた首里城は太平洋戦争の際の米軍の集中砲火を浴びて、一部を残し大破。その跡地に琉球大学が建設され、その面影は一時消え去ってしまった。しかし、同大学の移転が決まり、1980年(昭和55年)から復元作業が行われ、本土復帰20年にあたる1992年ようやく完成した。なお、世界遺産に登録されているのは、「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産には含まれていない。
首里城は王族が移住する王宮であると同時に、政治や儀式、祭祀などが行われた琉球王国の象徴として、1879年の沖縄県が発足するまで、その役目を果たしてきた。城の周辺には芸能や音楽、工芸など芸術の専門家が多く住んでいたことから、琉球の文化の発信地でもあった、どこか異国を感じさせるところで、当時日本や東南アジアの影響を受けながら、琉球独自の文化を育んでいった沖縄の歴史を垣間見ることが出来る。
・玉 陵
沖縄県最大の王家の陵墓。琉球独自の陵墓として、近世の日本においても重要な石造記念建築物といわれている。
・今帰仁城跡
三山時代の北山王が居城していた城。起伏に富んだ地形に沿って作られた城壁が優美な曲線を描くように巡らされている。
・識名園
1799年に、中国皇帝の使者をはじめ、海外からの使者をもてなす場所としてつくられた琉球王家の別邸及び庭園
・園比屋武御嶽石門。国王が外出する際に、安全を祈願した拝所
・斎場御嶽。御嶽の中でも最も格式の高い聖地
・座喜味城跡。北山の旧勢力を牽制するために、15世紀初頭に護佐丸が築城した。(日本の世界遺産より)
・琉球舞踊。現在私達が観ることのできる琉球舞踊は、古典舞踊、雑踊り(ゾウウドウイ)民俗舞踊、創作舞踊の4つに大別される。芸能を外交政策の重要な柱として位置付けた王府は、踊りて全て士族の男性エリートとし、「踊奉行」を置くなど歓待芸としての「宮廷舞踊」をより洗練させて行った。
・宮廷舞踊と呼ばれる古典舞踊は、首里王府によって庇護、熟成された。中国の使者・冊封使(サッポウシ)の前で踊られた、老人踊り・若衆踊り・女踊りと薩摩役人の前で主に踊られた、二才踊りがある。
・廃藩置県後、禄を失った役人舞踊家が芝居小屋で役者になり、庶民の生活や想いをテーマーに革新的な舞踊を作り上げたのが、雑踊りです。琉球の島々や各地に継承されている民俗舞踊は今は祭祀舞踊としての趣を色濃く残し、戦後の舞踊家たちによる創作舞踊は、古代からの舞踊の伝統の要素を取り入れ、現代に生きる私たちの姿を写しとろうと今も創作され続けている。
・琉球舞踊を彩る脇役たち/衣装ー紅型・絣・芭蕉布
・紅型(ビンガタ)。沖縄で唯一の染物である。京や友禅、そして中国の型付けの技法を受けついだ部分も多いが、沖縄特有の原色を使った染付けと図柄は女踊りの衣装として冊封使の目を楽しませたことだろう。
・絣(かすり)。琉球絣は交易時代にもたらされた、紺地の絣は庶民の生活を写しとった雑踊りにはなくてはならない衣装です。ウシンチーに着付けた時、沖縄女性の美しさが引き立ちます
・芭蕉布(ばしょうーふ)。沖縄で一番古いオリジナルの素材です。素朴で涼しげな風合いは、農村娘の心意気を表現しているようで清楚で品があります。(琉球文化アーカイブより)
♨ 訪ねて見たい 温泉 (九州編)
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福 岡 県
・二日市温泉.(ふつかいち温泉)福岡県筑紫野市湯町にある温泉博多の奥座敷としてしられた二日市は、筑豊の石炭産業が盛んだった町で知られている.開湯は古く約1300年前の奈良時代で、万葉集に大伴旅人の詠んだ歌に紀されている。古くは「次田(すいた)の湯」「薬師温泉」と呼ばれ、江戸時代には、黒田藩主専用の「御前湯」が置かれ、「二日市温泉」と命名されたのは昭和25年のことです。「大丸別荘」には、昭和天皇はじめ皇族方が宿泊された由緒ある宿で、古湯にふさわしい名宿である。博多湯は温泉にかけては福岡県下ども屈指の名湯と言われている。
佐 賀 県
玄界灘と有明海に挟まれた九州最小の県で、古くから開けた土地です。筑紫平野の米や麦の穀倉地帯で、東部には工業団地も進出している。温泉地は県内で22か所の源泉地があり2014年の宿泊利用者は約752千人を数える。なかでも嬉野温泉には約47万にを数え突出し続いて武雄温泉が15万人で続いている。
・武雄温泉。(たけお温泉)佐賀県武雄市武雄町にある温泉。約1300年前に「肥前風土紀」にも出てくる歴史ある古湯で神功皇后も入浴されたと伝えられている。文禄・慶長の役の際豊臣秀吉が兵士に他の入浴客に迷惑をかけないようにと示した朱印状「入浴心得」が残されている。また江戸時代剣豪宮本武蔵、シーボルト、伊達正宗、伊能忠敬が入浴した記録も残されている。温泉の入口に、竜宮城を思わせる鮮やかな天平式楼門は釘を一本も使っていない建築物で、平成15年3月に復元された武雄温泉新館と桜門は東京駅を設計した辰野金吾の設計です。平成17年国の重要文化財に指定される。泉源の泉質は様々な成分が程よく入った弱アルカリ単純泉、保温に優れ、美肌を作る泉質として有名です。元湯、蓬莱湯、鷺乃湯、殿様の湯、家老湯、柄崎亭、各々趣のある温泉や日帰りのできるお湯にも浸かってみましょうよ。武雄市観光協会サイトより一部抜粋
武雄温泉 嬉野温泉
・嬉野温泉。(うれしの温泉)佐賀県嬉野市嬉野町にある温泉、武雄温泉と並び県を代表する温泉である。島根県斐乃上温泉、栃木県喜連川温泉と並んで「日本三大美肌の湯」に選ばれた。発見はその昔、神功皇后が戦の帰途に白鶴が川辺で疲れた羽を癒している姿をみて傷ついた兵士を湯に入れたところ、温泉が湧いていて、たちまち兵士の傷が癒えた、それを大変歓ばれた皇后が「あな、うれしいの」と言われたことが、嬉野の地名の起源と伝えられている。町の中心地に湧く温泉地で、九州でも有数の大温泉街である。その中に嬉野で最も古い旅館大村屋は創業天保元年また昭和天皇が全国植樹祭に宿泊された和多屋別荘等がある。足湯広場には「シーボルトの足湯」がある。美肌の湯として名高い嬉野温泉は、飲用にも適しており、中でも温泉を使って炊いている温泉湯豆腐は嬉野を代表する名物になっている。嬉野が本格的に発展したのは江戸時代に長崎街道の宿場町になってからのこと。現在でも長崎奉行の本陣となった瑞光寺や俵坂関所跡などが有り往時を偲ばせる。ぬめりのあるお湯、ナトリウムを多く含む重曹泉で、角質化した皮膚をなめらかにみずみずしい肌をよみがえらせます、飲めば胃腸や肝臓等の機能を活性化させる効果もあるとされる、身体の内外から美人になりましょう、ゆったり浸かりに何度となくたずねてみましょうよ。 嬉野旅館組合サイトよりこのページの先頭へ
長 崎 県
・小浜温泉。(おばま温泉)長崎県雲仙市小浜町にある温泉。雲仙岳の西麓、橘湾の海岸一帯に涌出し、野母半島を望む温泉で、落日の景観の良さは絶品である。高温で湯量の豊富な温泉として昔から多くの人に親しまれている。放熱量日本一といわれている。海岸沿いに30軒の旅館やホテルが軒を連ねるほか、三軒の共同浴場があり、その内の一軒は海岸の露天風呂、夕日を眺めながら入浴できる。小浜マリーンパーク内には日本一長い足湯施設「ほっとふっと105」がある。「肥前風土紀」(713年)にも記されている古湯で1900年代から湯冶場として利用されるようになった。1962年に雲仙温泉の国民保養温泉地の指定範囲拡大の際、小浜温泉の範囲も国民保養温泉地に指定された。小浜温泉は100度にも及ぶ講温泉で、この熱源を使い温泉たまごを宿の軒先で作っている。小浜ちゃんぽんも名物~すぐにでもたべたいな~
小浜温泉観光協会より
小浜温泉 雲仙温泉
熊本県には宿泊施設数417宿泊数利用数約2、759千人(2014年度)と多く全国5位の地位にあります。その中でも内牧・黒川・山鹿・坊中などが多く、植木・菊池・人吉も多く観光客を迎え入れている。
阿蘇温泉郷。(あそ温泉郷)熊本県阿蘇郡の阿蘇山周辺にある温泉の総称
・阿蘇内牧温泉 温泉郷の中でも桁違いに宿泊施設がある、和風旅館から大型リーゾトホテルから中小旅館、民宿まであらゆるニーズに対応。共同風呂も11軒、文学の街として知られ、夏目漱石、与謝野夫婦などの文学碑がある。
・赤水温泉。阿蘇町の西端、赤水駅の周辺にモダンなホテルと旅館がある。プール・スケート場が併設され、阿蘇ゴルフ倶楽部にも近く、レジャー客が多く、交通の便もよく、九州観光の休泊地として利用されている。
・垂玉温泉。創業江戸末期文化年間。(たるたま温泉)日本秘湯を守る会の会員、山口旅館がある。1ヶ所の内湯と2ヶ所のも露天風呂を持っている(内湯天の湯、露天風呂・滝の湯・かじかの湯)明治時代には与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里が当温泉に宿泊している
・地獄温泉。名の由来は火山ガス噴出による草木の生えていない場所にあるから。宿は清風荘があり多くの浴場があり、湯めぐりができる、山口旅館とは相互利用で入浴券購入で両方の浴場が使える。 白水温泉、栃木温泉、湯の谷温泉、にも立ち寄ってみたいですね
・黒川温泉。渓谷の両側に24軒の和風旅館が建ち並ぶ温泉街、派手な看板など廃し統一的な町並みで、落ち着いた雰囲気をかもし出している。ほとんどの旅館が露天風呂があり「入湯手形」で3ヵ所まで入浴が出来る、「首なし身代わり地蔵」の伝説がある、地蔵堂と共同浴場「地蔵湯」がある。全国屈指の人気温泉地として知られている。1964年南小国温泉の一部として国民保養温泉地に指定されている。(田の原温泉にも立ち寄ってみよう。
・杖立温泉。(つえたて温泉)熊本県阿蘇郡小国町にある温泉 熊本県と大分県の県境に位置し「九州の奥座敷」「福岡の奥座敷」と呼ばれていた。開湯伝説によると、応神天皇の産湯として使われたことから約1800年の歴史がある。近年はバブル時の教訓を生かし、温泉情緒や歴史的由来等、背戸屋(杖立では路地裏を背戸屋と呼ぶ)と呼ばれる町並みの散策、などの特徴を生かした町作りが盛んになりつつある。なを5月の風物詩「こいのぼり」の発祥地がこの温泉である。温泉街では「湯巡り手帳」を発行している。江戸時代は熊本藩の御前湯が置かれた、現在は共同浴場御前湯となっている。
・日奈久温泉。(ひなぐ温泉)熊本県八代市にある温泉天草諸島を望む不知火海の海岸沿いに、木造三階建ての旅館街があり、往時の名残をとどめている。発見されて600年が経つ熊本県を代表する古湯である。現在では泉源が16あり一部を除いて温泉共同組合が共同管理している。湧出量は毎時140トン、ほとんどの旅館がかけ流しの湯で、湯冶の町として昔から人々の心と体を癒してきた日奈久温泉、泉質はアルカリ性単純泉で関節炎、神経痛、冷え性にきくと言われています。冬場は晩白柚が湯ぶねに浮かび女性にも人気で公営浴場・東湯・西湯・松の湯にも寄りゆっくり、どっぷり湯に浸かりましょうよ.
・満願寺温泉。南小国町、町のほぼ中央部、志津川に沿う山間の満願寺集落に位置する。鎌倉時代、幕府執権北條氏の祈願所として創建された、満願寺の寺領とされていたところで開発の歴史は古い、湯量は豊富で志津川の河畔にも湯が沸き、露天風呂が設けられてい、入浴のほか洗濯にも利用されている。付近の見どころは、樹齢三百年を越える老杉、国指定天然記念物の金比羅スギなどがある。
・はげの湯温泉。小国町の東端、涌蓋山の北西麓にある温泉。地獄と呼ばれる蒸気で蒸した山菜や鶏などの料理が名物で、南西に阿蘇外輪山が遠望できる、宿の周辺のいたるところから高温の地熱蒸気が噴き出し湯気と硫黄の臭気が漂っている。
県の南西部に位置する芦北町内にある・湯浦温泉・鶴木山温泉・吉尾温泉にも足を運んでください・湯の児温泉。水俣市の北西端、山を背に、紺碧の八代海を前にした海岸べりに湯宿がある。つり橋で結ばれる湯の児島を前にして自然の風趣に恵まれ、環境の静かで保養にもよい。この名前は古くからぬるい湯が湧出ていて“湯のこども”すなわち“湯の児”と呼ばれたのに由来するという。大海亀が浜辺で湯あみをしていたことから発見されたともいわれている。また、この温泉の名物に、タチウオ釣りがある。湯街の桟橋から釣り船が出ており、タチウオ釣りを楽しめます。
・湯の鶴温泉。水俣市湯出、湯出川上流の峡間に十軒ほどの湯宿がある。長期湯治客の多い療養温泉で、鎌倉初期、平家の落人が、傷ついた鶴が湯浴びするのをみて発見したといわれ、この名がついた。春は山腹を彩るさくらが美しく、夏は川面をホタルが飛びかい、カジカの鳴き声が涼をはこぶ。燃え立つような紅葉が谷をうめつくす秋や、落葉の舞う冬もそれぞれに風情があり、のんびりするには良いところ、自炊も出来る、付近には湯の鶴七滝。亀嶺高原といった名所があります。
・人吉温泉。人吉の町中、球磨川の右岸沿いに十軒余りの湯宿が散在する。明治時代末期、掘削によって湧出し、三十数か所の泉源があり、湯量は豊富。旅館内湯のほか、公衆浴場もある。対岸には人吉城跡を眺める風光に恵まれ、晩秋から初春の朝夕、街並みをすっぽりと包む深い川霧もここの名物の一つ。いかにも古い城下町らしい情趣がかもしだされている。球磨川下りも楽しめます・湯山温泉。水上村湯山、市房ダム湖から少し東へ湯山川沿いの山間に、六軒の湯宿と二軒の民宿、ユースホステルがある。市房ダムが出来るまでは、ひなびた山の湯治場であったが、そのご旅館の設備も整い、行楽客の訪れが増えている。市房山の登山口にもなっている、付近の渓流ではヤマメ釣りが楽しめます。ダム湖畔には桜が多く“千本桜”とも称されて、春の時期には見事な桜が景観をなします。
・本渡温泉。島原湾に突き出た小さな岬に二軒の旅館がある。環境は静かで、天草探勝の足場もよい。夏は海水浴、海釣りなどが楽しめる、新鮮な魚介料理の魅力です。
・下田温泉。天草町下田北、天草灘に注ぐ下津深江川の河口に近い山間に、十軒ほどの湯宿がある。天草唯一の温泉郷で、建武のころ、里人が傷ついた白鷺が湯浴みをしているのを見て発見したといわれ、一名“白鷺温泉”とも呼ぶ。天草深勝の足場によい。
大 分 県
・別府温泉郷 。(べっぷおんせんきょう)大分県別府市にある温泉郷。大分県の東部中央に位置する別府市は、国東半島と佐賀関半島に囲まれ、まえに別府湾を望み後ろ鶴見山と雄大な高原が広がる風光明媚な地。市内には別府・浜脇観海寺・堀田・明礬・鉄輪・柴石・亀川の8つの温泉地があり、これらを総称して「別府八湯」または「別府温泉郷」と呼んでいる。源泉数、湧出量ともに日本一を誇る。八湯それぞれに長い歴史を有しそれぞれに特徴がありまさに世界に誇る大温泉郷である
・別府温泉。(べっぷ温泉)別府を代表する温泉街で、単純泉、食塩泉、重曹泉、重炭酸土類泉など多数の温泉が涌き、温泉街は別府8景の中で、もぅとも夜になれば飲食店や別府タワーが煌く。別府八湯の中心で、別府温泉のシンボル的存在の竹瓦温泉があり、毎年4月に行われる「温泉まつり」はこの界隈で開催される。
・浜脇温泉。(はまわきおんせん)府温泉郷発祥の地、海岸の浜から温泉が湧き出す様子から「ハマワキ」の地名が生まれたとされている。今も昔風の旅館が並び、明治・大正の面影をとどめている。平成3年には共同浴場の「浜脇温泉」と多目的温泉保養館の「湯郷ピア浜脇」がつくられ、現代的な顔に変わりつつある。
・観海寺温泉。(かんかいじおんせん)鎌倉時代に発見された温泉地。江戸時代の「豊後国志」に「景観は壮観なので浴客が盛んに訪れている」と記されているように、海抜150メートルの崖上に位置し別府八湯の中で一番見晴らしの良いところ。昭和6年の大火災後、復興し観光温泉地として急速に別府温泉郷を代表する大型リゾートホテルガ連立し、レジャーの殿堂となっているまた地熱利用も盛んである。
・堀田温泉。(ほりたおんせん)豊富な湯量に恵まれていた堀田温泉は湯布院・日田・大宰府等に通じる交通の要塞であったため長旅の疲れを癒す憩いの場として栄えた。今でも田んぼや谷あいから盛んに磁気が噴き出し豊富な温泉は市内各所に給湯されている。一番別府インターチェンジ最も近い温泉地。
・明礬温泉。(みょうばんおんせん)藁葺きの「湯の花小屋」から白い噴煙が立ち上がり、硫黄の匂いとともに訪れる人々を楽しましてくれる温泉地。すでに江戸時代には「明礬」の採取地として、質・量ともに全国一となり明礬採取事業の隆盛とともに湯治場として発展してきた。現在は、名産の「湯の花」とともにザボン湯も有名で、湯の香りと甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐる。肌もツヤツヤになると大好評。さらに、環境省から柴石・鉄輪とともに国民保養温泉地に指定されている。
・鉄輪温泉。(かんなわおんせん)おびただしい湯煙が立ち上がり、まさに別府を象徴する景観の温泉地。別府8景中最も温泉場らしく感じられる。鎌倉時代「玖倍理湯の井」(くべりゆのい)といわれた荒地獄を一遍上人が開発下と伝えられる。その一遍上人が創設した「むし湯」付近が鉄輪の中心で、狭い道の両側には、多くの共同浴場・旅館・土産物店がひしめいている。さらに、鉄輪独特の「入湯貸間旅館」も健在で、遠来の入湯客が絶えない別府の代表温泉地である。環境省から明礬・柴石とともに国民保養温泉地に指定されている。
・柴石温泉。(しばせきおんせん)別府八湯の中でも秘湯的な雰囲気が漂う温泉地。柴石川に沿って市営の温泉施設がある895年に醍醐天皇が、1044年に後冷泉天皇が病気療養のために湯治されたと伝えらている。江戸時代に柴の化石が見つかり「柴石」と呼ばれるようになった。平成9年には「ふれあい・やすらぎ温泉地」として市営の温泉施設が新たにオープンした。優れた自然景観は、近くの遊歩道を有し、鉄輪・明礬とともに、環境省から国民保養温泉地に指定され
・亀川温泉。(かめがわおんせん)江戸時代の「豊国紀行」に「里屋に温泉有り、塩湯なり里屋村を又亀川村ともいう」と記され、海岸に豊富な温泉が湧出しており、天然砂湯が名物であったと伝えられてる。当時は別府の北の玄関として、豊前小倉への交通の要塞でもあったため、旅人の疲れを癒す湯冶場として発展した。現在は「上人ヶ浜公園」の一角に、市営の「別府海浜砂湯」があります。周辺は温泉を利用した病院や療養施設なだが数多く有ります。日本温泉協会サイトより別府市観光課より抜粋
・長湯温泉。(ながゆ温泉)大分県竹田市直入にある温泉。世界でも類を見ない炭酸濃度の高さとその効能でしられ、各施設とも基本は源泉かけ流しを行っている。芦川の流れに沿って旅館や国民宿舎の他、公衆浴場共同浴場が点在し、その周辺は田園風景が広がる。ガニ湯(カニ湯ともいう)周辺には旅館や温泉施設が比較的多く、また飲泉所・湧水が点在している。1978年に国民保養温泉地に指定される。主要公衆浴場・共同浴場・ガニ湯(カニ湯とも言う):芦川の川原にある石組の露天風呂・直入町温泉療養文化館 御前湯:直入町は炭酸泉で有名。・温泉交流館 長生湯:庶民的な公衆浴場。・天満湯:庶民的な値段で利用できる公衆浴場。・ラムネ温泉:芦川沿いに建つ木造小屋風の施設。・お湯の駅あすかの湯:芦川沿いに建つ温泉で8つの露天風呂付家族風呂があってあす川の湯と呼ばれる男女別々の共同浴場がある。長湯温泉は「飲んで効き、長湯して効く、胃腸心臓に血の薬」と松尾博士に讃えられた温泉であり、久住山・大船山・黒岳などを仰ぐ芦川のほとりに湧く名湯です。
宮 崎 県
・京町温泉。(きょうまち温泉)宮崎県えびの市にある温泉。宮崎県で最大の温泉郷、京町は、えびの高原の玄関口に噴煙を上げる。昔ながらの商店や民家の間に十数軒の旅館が並ぶ規模で、ひっそりとした雰囲気である周囲を霧島連山と矢岳高原の間の真幸盆地の中央にあり景観に優れ、保養向け、またえびの高原や霧島方面の観光中心地として利用される。五穀豊穣を祈願しての田の神「田の神さあ」と呼ばれる石仏がシンボルでのどかな田園風景がかもし出されている。温泉の歴史は新しく大正4年(1915年)黒松徳太郎氏の掘削に成功した事が始まり。
鹿 児 島 県
・指宿温泉郷。(いぶすき温泉郷)鹿児島県指宿市東部にある温泉、古くは「湯豊宿」(ゆぶじゅく)と呼ばれていた。今でも一日の湧出量は12万トン泉源は800本前後と言われている。範囲は広く北の魚見崎から錦江湾沿いに大山崎まで約6キロに及ぶ。この間に湯山、湊、湯之里、摺ケ浜、二月田、河原湯、弥次ヶ湯温泉などの温泉が点在する。
指宿温泉
・摺ケ浜温泉。名称の由来は「砂場ケ浜」が「摺ケ浜」呼ばれるようになった。長さ1kmの砂浜に温泉で加熱された高温部があり、砂むしの名所としてしられる。(砂むしとは浴衣をきて適当な温度になるように攪拌された砂に埋まって温まる入浴方法)
・二月田温泉。元々は、薩摩藩27代藩主島津斉興が、天保2年(1831年)、別の所にあった温泉別荘を、ここに移したもの。明治以降は公衆浴場として一般開放された。
・弥次ヶ湯温泉。名前の由来は弥次という者が発見したためと伝えられているが、別の説もある。民営の外湯は風情があるとの評判。
・湯之里温泉。高温の湯が得られることから盛んに開発が行われ製塩などに利用されている。周辺の宿泊施設等の泉源として利用されている。
・霧島温泉郷。鹿児島県霧島市から湧水町にかけて霧島山中腹に点在する温泉群の総称。天孫降臨伝説の霧島山の麓から湧出る霧島温泉郷は大小9つの温泉からなりいずれも標高600mから850mの間に位置し、様々な泉質があり、あらゆる症状に効果があります。付近には、布引滝、千畳敷、霧島最古といわれる岩風呂などの名所があり、旅館、ホテル等も多く存在し霧島観光の拠点となっている。
日本温泉協会サイトより別府市観光課より
・霧島神宮温泉郷。神話のふるさと天孫降臨のニニキノミコトを祀っている霧島神宮周辺に広がる温泉、天孫降臨伝説にまつわる霧島連山の麓だけに、神秘的な雰囲気を醸し出している。昭和9年日本で最初の国立公園に指定された地域。霧島山は日本百名山の一つである。宿泊も霧島神宮に近く観光に便利。大型リゾートあり、昔ながらの温泉旅館ありと露天風呂も大自然型から景色一望型までいろいろありです。入湯霧札で霧島神宮温泉郷の温泉施設を三回利用できる。
・新川渓谷温泉郷。鹿児島県霧島市牧園町の新川渓谷一帯に点在する温泉群の総称。和風旅館が立ち並ぶ妙見温泉、昔ながらの湯冶宿に自炊客で賑わう安楽温泉、幕末の風雲児・坂本龍馬が日本ではじめての新婚旅行に訪れた地として知られる塩浸温泉など霧島市のほぼ中心部を流れる天隆川沿いに多種、多様な温泉地が広がる。近隣には四季折々の見所がたくさんあります。是非お立ち寄りを。
・日当山温泉郷。鹿児島県霧島市の国分平野北西部から中部にかけて散在する温泉の総称隼人温泉とも呼ばれる。鹿児島県内でもっとも古い温泉といわれている。西郷隆盛もよく訪れた温泉郷で、昔から鹿児島の奥座敷として栄えてきました。現在の日当山温泉は、天隆川の清流の両岸に広がり、二十数軒の旅館、公衆浴場、家族風呂があります。
〒663-8124
兵庫県西宮市
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