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三 重 県
三重県は近畿地方の最東部に位置し、南北に細長く、伊勢湾・熊野灘に面している。近畿地方では兵庫県に次ぐ面積を有し県庁所在地は津市で、旧国名は、伊賀・伊勢志摩の三国と紀伊国の一部です。名前の謂われは日本武尊の故事によるといわれている古くから伊勢神宮の所在地として全国に知られ、それに”真珠と海女”を加えて我が国で屈指の観光地であります。また県北部は北勢(伊勢湾臨海)工業地帯と呼ばれ我が国主要産業の一中心地であります。名物時雨蛤で有名な桑名市も、江戸時代には東海道の要所、宿場町として繁栄し、ことに明治末期までは東京・大阪・名古屋と並んで、わが国の四大米相場地として知られた。また今日では川口市(埼玉県)と並んで鋳物工業都市となり”桑名鋳物”の名で有名です。県内から輩出された著名人に松尾芭蕉・本居宣長・三井高利(三井財閥)御木本幸吉(ミキモトパール)忘れてはならない人物です。国際的観光地の伊勢志摩と三県にまたがる吉野熊野の国定公園をはじめ、室生赤目青山国定公園、鈴鹿国定公園、香肌峡・水郷(長島温泉)、伊勢の海(鼔ヶ浦・阿漕浦・香良洲海岸)、奥伊勢宮川峡の四つの県立自然公園があります。古い歴史を誇るように沢山の名所・旧跡・建造物等があります。
・唐人踊り。三重県津市丸之内。毎年全市をあげて行われる津まつりの呼び物で寛永12年、藩主藤堂高次により始められた360年余の伝統を誇る祭礼行列でありますユーモラスな唐人ノ面をかぶり、ラッパ・笛・太鼓・鉦による古典的な囃子を鳴らしながら、きらびやかな衣装をつけた人々により唐人踊りの行列は有名で遠方から多くの見物客が訪れます。
・津偕楽公園。津市広明町。 安政6年(1859)津藩11代藩主藤堂高獣の山荘としてひらかれたもので自然の山容を活かし、泉水を配するなど野趣に富んだ名園です。今は市民に開放され(三重県公園)、かって伊勢街道にあった常夜灯が移されています桜やツツジの名所として親しまれています。昭和38年に津市指定史跡名勝に指定されています。園内には県立博物館があり、付近には護国神社や県立美術館があります。
・本居宣長宅跡。松阪市魚町。 江戸時代の国学者・文献学者・医師で「国学の四大人」の一人とされる本居宣長の旧宅、現在は和風の門と堀が残っている。特別史跡に指定されています。松阪公園内にある「本居宣長旧宅・鈴屋」「本居宣長記念館」も訪ねてみよう。
・松阪城跡 (松阪公園)松阪市殿町。 阪内川右岸の四五百森といわれる高台にあり、昔からホトトギスの名所といわれたところです。天正十六年に蒲生氏郷によって築城された。三層の石塁を築いた平山城の一典型で、大手門・搦手門・櫓廊・本丸・二の丸・天守閣などの跡をとどめている。昭和二十七年七月、城跡全体が県の史跡に指定されています。毎年四月上旬春祭り、十一月三日の氏郷まつりとともに公園は多くの人達で賑わいます。
・斎宮跡。明和町斎宮。 東西2㌔、南北700㍍、面積約140㌶に及ぶ全国に類例のない、屈指の大規模史跡。約660年間、伊勢神宮の祭祀を行うために代々の天皇が派遣した斎王の御所と、その事務を取り扱った500余人もの宮人の役所である斎宮寮の跡であります。昭和54年3月に国史跡に指定されています。斎宮歴史博物館・斎宮ハナショウブ群落にも立ち寄りましょう。
・伊 勢。伊勢は昔から”お伊勢参り”で知られ、広く国民に親しまれてきたところです。今では真珠と海女に代表される志摩半島とともに国立公園に指定され県内随一の観光地として多くの人びとが訪れます。
・伊勢神宮。”お伊勢さん”と呼ばれて親しまれている伊勢神宮は、正式には「神宮」といい、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮の両正宮からなっている。両宮の間は約6㌔離れている両宮は、森に囲まれた神域にあり、千有余年の歴史をもつ壮厳さが境内に満ちて深い感動を与える。内宮は神路山の麓にあり、外宮は高倉山の麓にあります。
・伊勢志摩国立公園。伊勢市。日本でも代表的な海洋公園で、伊勢神宮のある伊勢と、真珠と海女で知られる志摩半島で構成されています。伊勢神宮は皇室の先祖を祀り、古くから参拝客が多く老杉に囲まれた森厳な雰囲気が喜ばれています。志摩は屈曲の多い複雑な海岸線に夫婦岩で有名な二見浦、美しい緑の島々が浮かぶ鳥羽湾、カキ養殖の的矢湾、英虞湾五ヶ所湾などの景勝地が続いています。これらの湾が波静かな女性的な海であるのに対して、安乗岬・大王崎のほうにいくと、外洋に面しているため海岸は削り取られ切り立った断崖にぶつかる波が飛び散る様は、実に雄壮である。海浜にはハマユウが咲き乱れ、海女たちが陽をあびてたむろしている様子は志摩ならではの美景でしょう。
・二見浦。二見町北部沿岸。 内宮の中を流れて伊勢湾に注ぐ五十鈴川の三角州地帯の総称で西の今一色海岸から東の立石崎に及ぶ約5㌔の海岸である。参拝者はここでまず身を清めたという風習があったことから、「清渚」の名が今も残っています。松林を背にした海岸から、はるかに知多・渥美半島を望み、眼前に大小の島々を眺める風景は実に素晴らしい。大注連縄で結ばれた大小二つの岩が夫婦岩で、この間から昇る日の出は美しく有名です。
・夫婦岩・立石崎の海岸より約20㍍沖に立つ大小の岩です。夫婦円満や縁結びの象徴としても知られます。大きい岩は高さ9㍍、周囲44㍍、小さい岩は高さ4㍍周囲10㍍で、両岩の間には大注連縄がかけられています。)
・鳥羽水族館。鳥羽市鳥羽。 日本屈指の規模を誇る水族館で約1200種の海の生き物が飼育されている世界初の床以外が全面ガラス張りになった透明ギャラリーで、サンゴ礁の海底を再現したものです。人工サンゴ礁とサンゴ礁魚類が水中照明に浮かび上がり海中遊泳気分が体験できます。その他、古代の海や海獣の王国パフォーマンススタジアム、伊勢志摩の海、ジャングルワールド、森の水辺極地の海、人魚の海、日本の川、ペンギン、カワウソなどの見学ができる。
・英虞湾。(あごわん)志摩半島で一番でかい入海ですね。リアル式海岸の特徴を有し、賢島など無数に浮かぶ島影と真珠の養殖が有名。夕日がたまらなく綺麗ですよ。
・ミキモト真珠島。鳥羽市鳥羽。 鳥羽水族館のすぐ北方海上に浮かぶ島。正式には相島という。明治26年(1893)御木本幸吉がここで真珠の養殖に成功したことから、真珠島パールアイランドと呼ばれるようになった。その名のとおり、島全体が真珠の博物館のようになっていて、年間に数十万人に及ぶ観光客が訪れる。
・天の岩戸 (恵利原の水穴)磯部町。 伊勢市と磯部町を結ぶ伊勢道路の途中、町境の逢坂峠に近い山中にある石灰洞。恵利原の水穴と呼ばれており、ここから湧き出る清水は国の名水百選に選ばれています。
・小岐須渓谷。鈴鹿市小岐須町。 御幣川の上流部、野登山・仙ヶ岳・宮指路岳・入道ヶ岳に囲まれた延長約4㌔の渓谷で水量が多く、各所に滝がかかり、清流が大小無数の淵をつくって流れ下っています。圧巻は、大理石質の白色石灰岩が、高さ約30㍍、延長130㍍余りにわたってそそり立つ”屏風岩”で県の天然記念物に指定されています。健全な行楽地として、青少年や家族ずれに多く利用されています。
・上野城跡 (上野公園)伊賀市上野丸ノ内。 国の史跡なっています。城跡は上野公園とされ、老樹の茂る森の中に堅固さを誇った高石垣や内堀が、ほとんど完形をとどめて残っており、遠い昔を語りかけてくれます。園内には、芭蕉翁記念館・俳諧殿・伊賀流忍者屋敷・鬼屋敷などの文化・観光施設があります。
・鍵谷の辻。伊賀市小田町。伊勢街道と奈良街道の分岐点にあるのが「鍵谷の辻史跡公園」です。有名な伊賀越仇討ちが行われたところで(荒木又右エ門が渡辺一馬を助け河合又五郎を討たせた)曽我兄弟・赤穂浪士と並んで日本三大仇討の一つに数えられています。伊賀の水月」として名高い。
・獅子岩。熊野市。 熊野灘に向かって吠える獅子の岩で、世界遺産、そして天然記念物及び名勝、七里御浜の北端、井戸川右岸に近い海岸沿いにあり、上部は石英粗面岩下部は凝灰岩からなる高さ25㍍余の巨岩。 獅子が吠えているような形をしているところから、この名がある。
・鬼ヶ城。熊野市木本町。 木本町の北東に突き出た岬にある。熊野灘に臨む石英粗面岩の岩壁が、長い間の海食作用と数度の地震によって、今のような風変わりな岩や洞窟になったものです。国の天然記念物・名勝に指定されています。
・七里御浜。熊野市御浜町。約25㌔に及ぶなだらかな砂丘海岸。アカウミガメの上陸地としても知られています。いたるところ断崖と岩礁の熊野海岸で、ここだけ緩やかな弧線を描く白砂の長汀をなしており、浜に沿って樹齢2~300年の松林や、広葉樹の防風林が延々と続いています。この浜にはスベスベした手触りと、さまざまな模様をもつ色とりどりの小石があり「みはま小石」とも呼ばれ、装飾品・調度品などに利用されています。
・布引の滝。紀和町小栗須。四段に別れた、白い大きな布を引いたように落ちる雄大な滝。上から1段目が12㍍、2段目が3,5㍍、3段目が7,7㍍、4段目が29.1㍍の落差があり日本の滝百選の一つに選ばれており、年間を通じて多くの観光客が訪れています。秋の紅葉の時期は特に美しいですよ。
・吉野熊野国立公園。紀伊半島の南部の熊野灘に面した海岸線と熊野川の支流北山川にそった峡谷瀞峡(どろきょう)と、吉野山・大峰山などの山岳地帯からなっている。 山頂は大部分が高原状、渓谷は絶壁を成し、しかも温暖多雨の気候は杉やヒノキなど美林を繁茂させて変化に富んだ自然美を作り出しています。南国の明るい海岸線には、鬼ヶ城・獅子岩・七里御浜などの景勝地がつづき熊野川をさかのぼれば峡谷美を誇る瀞峡。また大台ケ原などの緑濃い山岳地帯には秘湯や史跡・名勝も数多い。
・瀞 峡 (どろきょう)紀和町西部。熊野川の支流、北山川にある峡谷で、奈良・和歌山・三重の三県にまたがり一帯が吉野熊野国立公園に指定されています。両岸に30~40㍍もある懸崖がそばだち。見事な峡谷美を展開しています。成因は、太古、谷の入り口に存在していた大瀑布が浸食されて後退し、その滝つぼの連続によってできたものと推定されている。峡谷は下流から下瀞・上瀞・奥瀞・の三つに分けられが、景観の美しさは下瀞俗にいう”瀞八丁”が一番で、国の特別名勝・天然記念物に指定されています
滋 賀 県
滋賀県は江州とも呼ばれ、日本列島のほぼ中央部西より、近江盆地に位置する。湖面積約670・40平方㌔という広大な琵琶湖が県全土の六分の一を占める。県庁は大津市。旧国名は近江国。昔も今も変わりなく、近江はまず淡海の国である。琵琶湖は近江の人々の生活を、人情を、あるいは文化までも左右してきた。周囲を山地に囲まれた近江盆地、ここに入るのには3つの峠かトンネルを越さなければならない、・愛知関を通るのは北陸本線・不破関を通るのが東海道本線・鈴鹿関を通るのが1号線で、京都から入るのには逢坂関がある。近江は物資の集散地でもあった早くから他国の人と交わることが多くまた、自らが行商人となって旅にでた。これが天下に名をなす近江商人でその後、江戸日本橋、大坂本町筋、京都三条通りの店はほとんど近江商人の出店であったとまでいわれた。このような積極性・開明性は伝統的に現代の近江の人びとにも受け継がれている。(郷土資料辞典・滋賀県参照)県下には沢山の古刹・仏閣がありますよ。
・琵琶湖(びわこ)ーミシガン。琵琶湖の代表的なエンターテイメントクルーズです。滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を有す。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼、豊富な自然資源を有する滋賀県は、琵琶湖周辺の観光、神社仏閣への観光客が一年を通じて多く訪れている。北に広く南に狭い湖の形が、和楽器の琵琶に似ていることから江戸時代に「琵琶湖」と名付けられたという。また昔は、鳰の海(におのうみ)、あるいは「都に近い大きな淡水の海」の意である。「近淡海(ちかつおうみ)」などとも呼ばれたが、旧国名の近江はこれによる。魚介類は豊富で我が国の淡水魚140種余のうちの、温水性・冷水性あわせて約60種の魚族と、40数種の貝類が生息しています。深勝には、彦根港・浜大津港・長浜港・今津港などから島めぐりの観光船が出ています。また甲賀エリアや、近江八幡の水郷や彦根城址にも是非訪れて見たいですね
近江八景。三井の晩鐘・粟津の晴嵐・瀬田の夕照・石山の秋月・唐崎の夜雨・堅田の落雁、比良の暮雪・矢橋の帰帆。一説には関白近衛正家が中国の「瀟湘八景」にならったのでは、又江戸後期浮世絵師安藤広重の紹介で有名になった。
琵琶湖八景。夕陽の瀬田・石山の清流・煙雨は比叡の樹林・涼風は雄松崎の白汀・暁霧は海津大崎の岩礁・新雪は賤ヶ岳の大観・月明は彦根の古城・春色は安土・八幡の水郷・新緑は竹生島の沈影の八景。昭和25年滋賀県が、琵琶湖が国定公園に指定されたのを機に新たに選定した。
・園城寺 (三井寺)大津市円成寺町。正式には長等山円城寺、一般には三井寺の名で知られています。天台寺門宗総本山この呼び名は境内に景行・成務・仲哀の三帝の産湯水を汲んだ霊泉があり、”御井の寺”と称されたのが始まりと伝える。開基は687年弘文天皇の皇子大友与多王が自分の邸宅である、「田園城邑」に氏寺を建立、「園城寺」の勅額を賜ったのが起こりとされています。境内地は広く約69万平方㍍。金堂・一切経蔵・大門・三十塔・鐘桜・食堂などの建物が多く、国宝あるいは国の重要文化財に指定されている”弁慶の引摺鐘”をはじめ多数の書画・古仏像類も伝えられています。天狗杉と呼ばれる巨木などもあります。
・竹生島。琵琶湖北部、びわ町の湖岸から西へ約六㌔の地点に浮かぶ花崗岩の小島。全島が竹・杉・松の自然林におおわれている。島内全域が国の史跡・名勝に指定されている。“竹生島の沈影”として琵琶湖八景の一つになっている。
・石山寺。大津市石山寺。 膳所市街の南西約2㌔、瀬田の清流に臨み、伽藍山を負った景勝の地にある。山号を石光山。歴史をへて、戦国時代に兵火により焼け落ちるも、豊臣秀吉や淀君により再興され江戸時代には、西国三十三ヶ所観音霊場めぐりの信者たちでにぎわった。境域は約10万平方㍍。ところどころで屹立する硅灰石の岩頭の間に、国宝の本堂、多宝塔をはじめ、東大門・蓮如堂・大黒堂・宝蔵・豊浄殿といった諸堂が建ち並び一大法境を形成しています。春のツツジ、秋の紅葉、月の名所でもあります。”石山の秋月”の地にもなっています5月に石山祭、6月青鬼祭、8月毘沙門祭、9月紫式部祭などでにぎわいます。多くの国宝・重要文化財を有しています。・三井寺金堂。園城寺町。天智・弘文・天武の三人の天皇が産湯を使った井戸があるため三井寺という。独特の石組を残している。円満院にも立ち寄ってみよう、桃山時代の最高建築・書院造の典型である宸殿をもつ。
・瀬田唐橋。大津市瀬田。 旧東海道が瀬田川の頸部を渡るところにかけられた橋で古来、宇治橋、淀橋と並んで三大名橋とうたわれた。”唐橋を制するものは天下を制すると”といわれた軍事上の要地であり今も交通の要地となっている。朱塗りの欄干に擬宝珠をつけた橋の造りが独特の情緒を醸し出します。現在の橋は交通量の増大もあって昭和54年に架け替えられたものですが昔の形は引き継いでおります。近江八景「瀬田(せた)の夕照(せきしょう)」に描かれていることは、あまりにも有名です。
・堅田の浮御堂。本堅田。恵心僧都が湖上交通の安全を祈って創建。芭蕉をはじめ文人墨客がこよなく愛したところ。
・日吉大社。大津市坂本。全国各地に鎮座する2800余の”山王さん”の総本宮。正式名称山王総本宮日吉大社。社地は比叡山の東、牛尾山の麓にあり、古く”山王七社”あるいは”山王二十一社”などと呼ばれたように、西本宮・東本宮をはじめとする多くの社殿が、森の中に建っている。境内一円が国の史跡に指定されています。元亀時代に信長の攻撃を受け焼けおちるも秀吉、家康によって再興され、江戸初期にはもとの寺観にととのった。明治初年神仏分離令によって延暦寺との長い歴史をたち、神社として独立した。国宝・重要文化財多い。
・比叡山 (標高 848㍍)大津市の北方、京都市との境界上に南北に連なる地塁山地で、山体の大部分が秩父古生層からなる。南部には花崗岩がみられ、山頂付近は暖傾斜で一部平坦地もあります。山上には平安初期、伝教大師最澄によって開かれた延暦寺があります。元亀2年(1571)史上有名な織田信長の比叡山焼き討ちにより全山焼き払われたが江戸時代の初め、江戸幕府の援助により復興された。東塔の根本中堂や西塔の釈迦堂などの壮大な伽藍は長い間仏教の霊地として敬われてきた。登山道も開かれており、またドライブウエーといった有料自動車道路が開かれています
・県下の祭り。由緒ある大津三大祭(大津祭・船幸祭・山王祭)をはじめ、琵琶湖とりまいて歴史の息吹あふれる祭りが多い。4月・五月に行われる勇ましい郷祭りがみもの。近江路の古社寺を訪れたあとは湖国ならではの行事に出会っておきたいですね。
・信楽の里。信楽町、1200年の歴史を誇り信楽焼きは町の代名詞で、あちこちに陶芸の施設がありますよ。
・安土城跡。安土町下豊浦、安土の街並みの北側、安土山一帯に残る平山城の跡。国の特別史跡に指定されている。今は摠見寺の三重塔と二王門のほか、山中いたるところに安太積と呼ばれる石垣や自然石の石段が残る。そしてわが国最初の本格的天主閣がそびえていた織田信長の城、惜しくも本能寺の変後に焼失した。深勝は西麓の百々橋口から、摠見寺二王門・三重塔などを見て南麓の大手口へ下るのが最も一般的です。
・彦根城。彦根市金亀町、金亀山にある井伊直勝が二〇年近くの歳月を費やした元和八年に完成した平山城。井伊氏歴代の居城。城は、明治初期の廃除令をまぬかれ現在も旧態を留めている。琵琶湖の水を巧みに利用した堀や牛蒡積の石垣などが、昔のままに残っている。現存する城郭のうち、天守が国宝に、太鼓門・天秤櫓・西の丸三重櫓・馬屋などが国の特別史跡として保護されている。姫路城、松本城・犬山城・松江城とともに国宝に指定されている.
・長命寺。近江八幡市、聖徳太子の開基と伝える西国三十三所第三一番札所。推古天皇の時代、来山した聖徳太子が、その旧跡に一宇を造立し、宿穪の長寿延命にちなんで長命寺と名付けたのが開基とされている。琵琶湖湖畔の参道入口から、長い石段を登ったところ、山腹斜面の小平地に本堂・三重塔・護摩堂・三仏堂・鐘楼・本坊・山門などが並び立っている。これらの建物の大部分が国の重要文化財に指定されている。
・余呉湖。余呉町南西部、賤ヶ岳と大岩山によって琵琶湖と隔てられた格好になっている。琵琶湖との標高が五十㍍近くあります。琵琶湖を大江と呼んだのに対し、伊香小江ともいわれている、天女の羽衣や龍神・菊石姫の伝説が残る神秘の湖です。八人の天女姉妹が白鳥に化身して、この湖で水浴していた。それを見た伊香刀美が白い犬に末娘の羽衣を盗ませた。姉七人は天に帰ったが、末娘は帰れず伊香刀美と夫婦になり、男子二人、女子二人を生んだのち、羽衣を探し出して天に帰ったという伝説で別名「鏡湖」とも呼ばれ、北岸には天女が羽衣を掛けたという「衣掛柳」が枝を広げています。この町の祭りとして「茶碗祭り」(四月三日、不定期)「中河内太鼓祭り」八月一六日(三年ごと)行われている。
・甲賀の里忍術村。甲賀町隠岐、約二万五千平方㍍の敷地に隠し階段やどんでん返しなどを備えたからくり屋敷、忍術資料を展示する忍者博物館、忍者の常用した薬草を集めた薬草園などがある。手裏剣投げや水蜘蛛といった忍術体験が出来るコーナーもある。
・八渕の滝。高島市、名のとおり八っの淵が連なる「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑。比良山系武奈ヶ岳の北にある鴨川の源流にかかる滝の総称。魚止の淵・障子が淵・唐戸の淵・大摺鉢・小摺鉢・屏風が淵・貴船ヶ淵・七遍返し淵の八つの淵で、いずれも水成岩と花崗岩の入りまじった川床を形成し、エメラルド色の清澄な水をたたえている。
京 都 府
京都府は本州中央部のやや西より、近畿地方の北部に位置し、南北に細長く北部は日本海にひらけ西は兵庫県、南は大阪府・奈良県、東は滋賀県・三重県北東は福井県にそれぞれ境を接している。府庁所在地は京都市、旧国名は山城・丹波・丹後の三国。延暦十三年(794)の平安遷都以来、明治元年の東京遷都まで皇居が置かれ京都はわが国の中心地であった、京都の歴史はそのままわが国の歴史でありめまぐるしい政権の変動、戦乱の中からわが国第一級の文化をつくりあげてきた。政治の中心から離れたといえ、文化・宗教の中心えおなし、貴重なその遺産は市中いたるところに残されかっての華やかさを偲ぶ事が出来る。平安遷都から1200年、都の歴史を誇る京都には約3000の古社寺があるといわれ一年を通じ、毎日のようにどこかで祭礼が行われている。その由来も規模もさまざまで、国の重要無形文化財に指定されているものも、数多い。(郷土資料事典・京都府より抜粋)
・京都市。延暦13年(794)以来、明治にいたるまでの千余年、王城の都であった京都市は世界に誇るわが国第一の文化観光都市である。京都といえば、まず東西の両本願寺、清水寺、金閣寺、銀閣寺、南禅寺、龍安寺、北野天満宮、八坂神社、知恩院など由緒ある社寺の多いことで有名である。概数では、神社が約260、寺院は1600余にも及んでいる。さらにこれらの社寺は、国宝・重要文化財指定の建造物・彫刻・絵画・墨跡など多くの文化財を有しており、国宝・重要文化財の全国件数のじつに20%近くが京都市に集中している。これらの文化財に加えて、長い歴史の中から生まれた、年中行事・風俗、味覚・さらに嵯峨野・嵐山・高雄・東山などの景観を加え、四季を通じて文字どおり国内随一の文化都市として、世界的に知られている。 (郷土資料事典より抜粋)
京都三大祭
・葵 祭(あおいまつり)5月15日。京都三大祭りひとつで、わが国の祭りの中で最も優雅で古趣に富んだ祭りで知られている。古典行列は平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社を経て、上賀茂神社に向かいます。「路頭の儀」と呼ばれる葵祭のきらびやかな行列何度も見たいですよね~
・祇 園 祭(ぎおんまつり) 7月1日から31日まで コンチキチ 祇園祭は八坂神社の祭りで、大阪の天神祭、東京の神田祭とともに、日本三大祭の一つで、その歴史の長いこと、その豪華さ、祭事が一ヶ月にわたる大規模なことでも知られている。おおよそ1100年前に日本全国の国の数の鉾66本を立て、祇園御霊会を行ったが始まりで、祭りのハイライトは17日と24日の33基の山鉾巡行です。中でも舟の形をした船鉾は独特の容姿は山鉾随一の優美さを誇る「京都祇園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にされています。
・時 代 祭(じだいまつり)10月22日 時代祭りは葵祭、祇園祭とともに京都三大祭の一つとして知られ、国内はもとより海外からの参観者も多く、沿道には豊かな国際色が見受けられます。三国隊の奏する笛、太鼓、音色を先頭に約2,000名・約2キロにわたる行列は順次、平安京の造営された延さかのぼり私共の心に過ぎ去った京都の歴史をしのばせます。それは日本の歴史の縮図とも言えます。平安時代から明治維新までの風俗を再現した行列がつづく。
・五山送り火。京都の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事。葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都4大行事の一つとされる。毎年8月16日に五山(如意ヶ嶽・西山及び東山・船山・左大文字山・曼陀羅山)などで行われるかがり火。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれる事がある。
・鞍馬の火祭り。京都市左京区鞍馬にある由岐神社例祭の一つ。京都三大奇祭の一つに数えられる。(10月22日夜)「さいれや、さいりょう」のかけ声とともに燃えさかる松明をもって神社山門を目指す。940年に、平安京の内裏に祀られている由岐明神(由岐神社)を都の北方の守護としてまた当時頻発した大地震や争いなど相次ぐ世情不安を沈めるために、朱雀天皇の案により鞍馬に還された。この時、鴨川に生えていた葦をかがり火として道々に点灯したほか遷宮の行列は1kmにも及んだという。これに感激した鞍馬の住民がその出来事と由岐明神の霊験を伝えるために始まったのが起源とされる。
・本願寺(東本願寺)。下京区烏丸通七条。 真宗本廟または真宗大谷派本願寺と称するが、西本願寺に対して一般には東本願寺と呼ばれている。全国一万余の末寺を擁する真宗大谷派本山です。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始めです。
・渉成園。(枳穀邸)下京区下珠数屋町。東本願寺の東方に位置し、もと生垣に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれている。承応二年(1653)三代将軍家光からこの地を与えられた宣如上人が石川丈山に造らせた書院式回遊庭園です。東山を背景とした広大な印月池をめぐって、頼山陽の選という、十三景の景勝があります。サクラ・カエデ・フジなどが多く、四季を通じて景趣に富んでいます。
・本願寺(西本願寺)下京区堀川通花屋町。 東本願寺から西へ10分ほどの所にある。全国に末寺1万余を擁する浄土真宗本願寺派の本山で、真宗大谷派本願寺の東本願寺に対し、西本願寺と通称される。弘長2年(1262)の親鸞聖人の没後、文永九年(1272)聖人の末娘覚信尼が、東山大谷の聖人の墓の近くに一宇を建立肖像を安置して御影堂とよんだのが起こりとされています。長い歴史をもつ浄土真宗本山だけに、国宝・重要文化財指定の寺宝類も多い。また書院庭園は特別名勝・史跡に指定されています。国宝・飛雲閣・唐門・書院・北能舞台・黒書院および伝廊・親鸞上人像他。
・五条大橋。下京区河原町五条東。 五条通の鴨川に架かる端で、もと松原通り架かっていたが天正年間に豊臣秀吉が現在地に架け替える。現在の橋は昭和34の改修、御影石の高欄赤銅の擬宝珠に昔の面影を留めている。この橋は、牛若丸と武蔵坊弁慶の伝説で有名で橋の西詰に、伝説にちなんだ京人形風の牛若丸と弁慶の石像がある。
・二条城。中京区二条通堀川西入二条町にある。慶長八年(1603)徳川家康が上洛の際の宿舎として造営した。その後、三代将軍家光が寛永3年(1626)、後水尾天皇を迎えた際、大規模な増改築を行った。寛永3年(1750)落雷で天守閣を焼失、天明8年の大火で本丸御殿などを類焼したが、再興されることなく明治を迎える。明治17年宮内庁の所管となり二条離宮と改称したが、昭和14年に京都市の所管となり二条城に復称した。現在、市の管理で一般に公開されている。創建当初のものは、二ノ丸殿舎など数棟を残すにすぎないが、堂々たる外観と贅を尽した内部に構造は、巨石を配した豪華無比の庭園とともに、当時の幕府の権勢を余すところなく物語っている。二条城はまた徳川幕府の創成期とその最後に歴史に名を残す役割を果たしている。大阪夏の陣、冬の陣の軍議が徳川最後の将軍慶喜が全国の諸大名を集め大政奉還を決めたのもこの大広間であった。国の史跡、世界文化遺産にも登録されています。
・神泉苑。中京区御池通大宮。 恒武天皇が初めて行幸されて以来、歴代天皇の御遊地となり舟遊び・狩猟・詩歌管弦の宴などが繰り広げられた。また天長元年、弘法大師が行った雨乞祈祷も有名である。御霊会の修行場としても知られている。貞観11年(869)、疫病退散の神事として牛頭天王を祀った。これが祇園祭の起こりともいわれている。現在の神泉苑は現和年間に(1615~24)快雅が再興したものです。再興に協力した京都所司代板倉勝重・片桐且元の供養塔が苑内の寺にある。苑内中央の放生池が、かっての大池の一部で、池中の島に雨乞い伝説の善女竜王を祀りそばに弁財天祠がある。毎年五月一日から五日まで神泉苑祭りが行われます。
・京都御所。上京区京都御苑。明治維新まで天皇の住まわれたところです。京都御苑の中央北よりにある南正面に健礼門、北に朔平門、東に健春門、西に宜秋門・清所門・皇后宮門を設けてい織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の修理と新造を経るも度重なる大火で焼失。現在の建物は安政3年、寛政の旧規によって再建されたものです。御所の正殿である紫宸殿は、御所の南端建令門の正面にあり、南殿ともいう。天皇の元服・即位など、重要な儀式の行われるところ。御所内の建物は多くは幕末期の建立で、また第二次大戦中、空襲を避けるため、取り除かれた部分も多いが、なお平安時代の優雅な面影を十分にとどめている。拝殿は春秋二回一般公開される。それ以外は事前に許可が必要。
・質志鍾乳洞公園。船井郡京丹波町。 質志川の南西側山地にある木立に囲まれた公園は自然の宝庫で森林浴、キャンプ、鍾乳洞探検などが楽しめます。府下唯一の鍾乳洞は昭和2年に発見されたもので、洞内は四つの部分からなり、規模は小さいが、高低差が大きく変化に富んだ複雑な支洞もあります。京都府指定文化財(天然記念物)
・嵐 山 。保津川にかかる渡月橋を中心に、嵐山駅にかけて京都のおしゃれな店が続く。嵐山は「源氏物語」にもあるように、貴族の別荘地として知られ、今もその雰囲気が漂う。
・天王山。乙訓郡大山岬町の山。JR東海道本線山崎駅のほぼ北約1㌔にある山で、淀川を挟んで男山と相対し、標高はさしてないが、京都盆地の出口を押さえる軍事交通上の要塞であるところから、古来しばしば戦場となったところ。なかでも、天正10年(1582)羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いが知られているこの時、両軍は、この山の占領を争い、秀吉の手に帰したことから、勝敗の分かれ目を”天王山”というようになった。山頂からは、京都・大阪平野が一望できる、山中には古社寺や史跡が多くあります。
・天ヶ瀬ダム。宇治市槇島町。 宇治橋の上流約2.5㌔に位置する。洪水予防・発電・給水などの多目的ダムで、昭和39年に完成した。宇治市から宇治川ラインの景勝地に沿いダムサイト・貯水池をまたいで大津市に抜けるドライブウェイが設けられており京都・大阪から琵琶湖への観光ルートとなっている。
・天橋立。宮津市。宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる砂洲です。松島・宮島と並んで日本三景の一つに数えられて名高い景勝地。京都市を除いた京都府内の最大の観光地です。この天橋立は、いざなぎの命が天にかけた橋が倒れてできたという言い伝えがありますが、阿蘇海に注ぐ野田川と、丹後半島を南に流れる潮の流れの作用によって、数千年の歳月を経て出来たものです。白砂青松の架け橋には、和泉式部の歌・蕪村の句碑などの旧跡があり、また展望台には西の大内峠からの「天橋立一字観」北の笠松公園から「股のぞき」、栗田峠からの「橋立観」、天橋立ビューランドからの「飛龍観」が有名です。海岸一帯は、絶好の海水浴場となり、毎年、夏になると海水浴客で賑わいます。
・伊根湾。宮津市伊根町。 町域の南端、丹後半島東岸にあり、波静かな内海で、湾口には緑に包まれた青島が浮かぶ。湾内では、キス・小ダイ・チヌなどの釣りが楽しめる漁港となっており湾の沿岸には「舟屋」と呼ばれる、上が住居で、下が舟の収蔵庫という建物が並び、珍しい風景をみせています。この伊根漁港は、伊根ブリの本場として名高く、一時、日本一の漁港といわれたほどの漁獲量を示したことがあります。今も10月~2月の間、一日二回行われるブリ網の水揚げ風景は壮観そのものです。島には魚の養殖場、珍しい鯨の墓、遊歩道があります。水産資料館にも立ちよろうよ。
・久美浜湾。松江の浦の別名があり、山陰海岸国立公園に抱合されている湾の沿岸は屈曲に富み優れた景観を持っている。東の湾口には、小天橋と呼ばれる砂洲が西にのび西端の狭い水道で僅かに日本海と通じている。深く入り込んだ湾の北西ではカキ、ハマチ・車えびなどの養殖がさかんです。また冬は数万羽のカモや白鳥が群れ集まって湾岸の雪景色とともに一大景観を呈しています。
・経ヶ岬。丹後町。丹後半島の最北端にある岬で、岬の突端に光度77カンデラ、日本三大灯台の一つの経ヶ岬灯台があります。眼下は断崖絶壁、遠く若狭連山や能登半島が臨め、また灯台下は磯釣りの格好の場所で、四季を通じ釣り人で賑わいます
・琴引浜・太鼓浜。京丹後市網野町。 八丁浜の東の掛津海岸にある。この浜に立って、足で砂をすると琴の音がで、足踏みをすると太鼓の音がすると伝えられている。近くには見事な根上りの松、白滝の名でよばれる地下水の吹き出しがあります。
大阪府
大阪市。市域の東部は概して高く西に行くにしたがって低くなり大阪湾に連なっている。水の都といわれるだけに大小多く河川・運河があります。天正11年(1583)に豊臣秀吉が大阪城を築き天下の覇権をにぎると城下町・商都として繁栄する。古い歴史を持つだけに、名所旧跡も多く、大坂城、四天王寺・住吉大社など多くの施設があります。さらに新幹線・東海道本線・山陰本線・私鉄各社・航空路など多くの訪れる人も多く、西日本随一の中心都市です。
・大阪城。数々の歴史につつまれた城で、豊臣秀吉が本願寺跡に築城工事を起こし浅野長政・増田長盛が采配をとり、三十余国の大名が一日数万の人夫を動員する。総面積100万坪、当時最大の規模をもつ城郭であった。その後幾多の歴史をくりかえすが、なかでも大阪夏の陣で敗れた豊臣側は秀頼・淀君の自害・諸将らの討死などと両軍あわせ総勢約2万強の死者をだす日本合戦最大の戦であった。明治を迎えるまでに大修理が行われるが怪火で焼失したりする。現存する大阪城内には大手門・堀・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・焔硝櫓・金蔵・桜門・金明水井戸屋形などが残っている、いずれも昭和28年国の重要文化財に指定されている現存するお城の魅力に石垣の美しさがあります。築城にあたり、新しい支配者に忠誠を示そうと、競って領地から巨石を運んだためとも言われている。京橋口の肥後石・桜門の蛸石・西壁の振袖石などが有名。天守閣に登ってみよう。
・造幣局 (造幣局の通り抜け」市内天満。 明治維新直後、貨幣制度の改革をはかるため設立された大蔵省の付属機関、明治4年9月から貨幣の鋳造を始める。現在東京・広島に支局があります。この三局で年間数十億枚に登硬貨が鋳造された。また、局構内の天満川岸には、七七種約五百本の桜があり、開花期には一般の通り抜けが許される「造幣局の通り抜け」として、春の大阪の名所となっている。
・中之島公園。市内北区中之島。 淀川の下流で、北を堂島川、南を土佐堀川にはさまれた美しい水の公園です。明治24年の開園園内には中央公会堂・府立中之島図書館などの文化施設があり、付近のサラリーマンや若者の憩いの場所として楽しまれています公園西には、市庁舎・日銀支店・朝日新聞・新大阪ホテル・大阪ビル・新朝日ビル、大阪大学などの高層建築物が建ち並んでいます
・海遊館。市内港区海岸通。 世界最大級の水族館。リングオブファイアをテーマーに太平洋をとりまく八つの地域を大小十四の水槽で再現しています。コアラ・ラッコ、ジンベイザメなど約300種、1万6000点の生物を展示しています。世界各国の食事とショッピングが楽しめます。
・通天閣。市内浪速区恵比須東。 天王寺公園の西につらなる娯楽街、新世界のシンボルの通天閣2007年5月15日に国の登録有形文化財に指定されています。明治36年第五回内国勧業博覧会場跡の西半分を同年44年、市民の娯楽地として開放された、このときに、通天閣はパリのエッフェル塔を模して作られた。高さ75㍍の通天閣を中心に、映画館・演芸場・旅館・飲食店が建ち並んでいる。昭和18年に取り壊されるも、昭和31年に再建される、高さ103㍍、展望台から大阪城・遠く生駒山・大阪湾まで望める。
・愛染祭り (あいぜんまつり)大阪市天王寺区和宗総本山四天王寺別院通称「愛染さん」で催される祭をさす。天神祭、住吉祭に並ぶ大阪三大夏祭り。「愛染さんで始まって、天神さんを乗り越えて、住吉さんで終わるのが大阪の夏祭り」です。聖徳太子の意向を受け継ぎ1400年間にわたり、続いているお祭りです。(6月30日~7月2日)
・天神祭り。東京・神田祭、京都・祇園祭とともに日本三大祭り、祭の中心は大阪天満宮で祀られている菅原道真公で、繁栄を祈願するため巡行する。陸渡御、船渡御に奉納花火、天神ギャル神輿など。(愛染祭、住吉祭とともに大阪三大夏祭り)
・住吉祭り(すみよしまつり)大阪最後の夏祭りを締めくくる住吉祭は大阪中をお祓いする「お清め」の意義があり「おはらい」とも言われている。7月海の日に「神輿洗神事」7月30日に「宵祭り」翌日「夏越祓神事・例大祭」、8月1日神輿行列で「神輿渡御」が行われる
・摂津峡。市内服部。 市域を南北に貫流する芥川の上流にあり、北摂随一の景勝地とされ両岸には夫婦岩・八畳岩などの奇岩、断崖・雄滝・雌滝・白滝・逆川などがありこの風景を日本三大奇景の一つ耶馬渓に例え「摂津耶馬渓」とも呼ばれている。府指定名勝・関西自然に親しむ風景100選・大阪みどりの百選等に選定されています。
・明治の森 箕面国定公園。市内北部。明治100年を記念して昭和42年12月、東京都八王子市にある明治の森高尾国定公園とともに国定公園に指定される。この公園の前身は明治31年府下で最初に指定された府営、箕面公園。箕面滝・箕面山地の渓谷を中心に春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉と、四季折々の変化を見せる景勝の地であります園内の唐人戻岩などの奇岩巨石、箕面滝などは、府下随一の景勝地で、また昆虫・植物の宝庫でもあります。サルの生息地でも有名です。
・枚方パーク。枚方市枚方公園町。 総面積17万平方㍍ノ遊園地。園内にはバラ園・劇場、各種遊戯施設などがあり、バラ園には約2000種、約4万株のバラがある。4月中旬~6月上旬までツツジ類が、約2000本の桜とともに咲き乱れ9月下旬から11月末まで開かれる菊人形は、長い伝統を誇る催しで広く知られている。毎年コンスタントに120万人前後の入園者数があり、その数はUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)に次いで、大阪府下2位を誇る。「光の遊園地」も楽しみましょう。
・延命寺の夕照モミジ。河内長野市神が丘延命寺境内。 弘法大師がお手植えと伝えられるカエデの巨木で夕映え時の美観から「夕照モミジ」と呼ばれて有名です。樹齢1000年余ともいわれ葉つきや枝ぶりは良いが、樹全体は老齢化している。昭和45年府の天然記念物に指定されている。
兵 庫 県。
兵庫県の自然景観。北は日本海、南は、瀬戸内海と太平洋と、本州で唯一、南北が海に面する広大な県土を有し、その広大な地域に気候や風土、歴史が異なる五つの国(阪神、但馬、丹波、淡路、播磨)をもつ。自然景観もまた、それぞれに強い個性と魅力を放ち、自然と都市が伝統文化と異国情緒が、そして海と大地が織りなす天然の美は、多くの人を惹きつけやまない兵庫県の代表的な祭り、鶴林寺太子会式(加古川市)相生ベローン祭り(相生市)デカンショ祭り(篠山町)うず潮祭り(淡路町)など、全国から観光客を集める祭りも多い。特産と伝統工芸二つの海や、中国山脈を源とする河川と肥沃な大地が豊かな農水産物を生み、古い歴史に育まれた出石焼・有馬人形筆・加古川金箔細工などの工芸品もある。(郷土資料事典より)昭和60年3月、都市景観の形成に関する条例・現「景観の形成等に関する条例」を制定。魅力ある景観を守り、創り、育み、そして将来に伝えるためさまざまな取組みを進めています。(ふるさと兵庫景観づくり基本方針より)
・神戸市 県庁所在地、大阪湾に臨むわが国屈指の国際貿易都市です。六甲山地とこれに連なる山地が占め、南部の海岸沿いに平野がひらけここに市の中心街が東西に細長く形づくられている。六甲山・摩耶山からなる1000万ドルの夜景、さまざまな夜景スポットが点在する神戸夜景の中で、六甲山・摩耶山からなる山エリア」は1000万ドルの夜景として賞賛されるほど、日本トップレベルを誇るビュースポットが点在し光輝く神戸市街はもちろん、大阪湾まで続く美しい光の湾曲が一望できます。エキゾチックな港と坂の街へどうぞおこしください。
・神戸市立王子動物園。市内灘区王子町。 西灘駅のすぐ北の王子公園内にある動物園で、約130種800点の動物を展示し、ジャイアントパンダとコアラが一緒に見ることが出来る唯一の動物園でなお公園内は、スポーツ公園で、動物園のほか、陸上競技場・体育館・動物科学資料館などが弁設されています。
・北野の異人館。神戸市中央区北野町。 三ノ宮駅北側、北野町一帯に異人館街があります。神戸港開港に伴い居留地を設置、さらに貿易商の邸宅が山手へと広がり、異国情緒豊かな街が出来上がりました。北野物語館ー歴史的建造物を活用した資料館。旧フロインドリーブ邸ともラインの館ー明治時代の異人館をそのまま受け継いでいる(細長い壁を横線、綺麗に整えた事から名づけられた)・風見鶏の館ー旧トーマス住宅。国重文。北野の異人館にあるレンガの外壁の建物としては唯一のものであります。風見鶏は風の方向を知らせる、魔除けの意味、キリスト教の教勢を発展させる等の意味があります。・萌黄の館ー当初は白い館と呼ばれていたが、その後の修理で萌黄色の外壁に復元された(小林住宅、旧シャープ住宅。国重文)
・神戸海洋博物館。神戸市中央区のメリケンパーク。「海・船・港」をテーマに、海洋航海や海底生活スミュレーションなどを展示。波と帆船をイメージした白亜の建物が印象的。昭和62年(1987)神戸開港120年の記念事業として、波止場の一部を埋め立てメリケンパークがオープンしたが、当博物館はそのシンボル施設となっている。
・ポートタワー。神戸市中央区。昭和38年(1963)神戸開港90周年を記念して建設されたもので鼓のように中央部がくびれたパイプ構造の展望台、パイプ構造のタワーとしては世界最初といわれ、港神戸のランドマークとして市民に親しまれている。内部は展望台と喫茶室になっています。
・神戸市立博物館。神戸市中央区京町。 歴史的な建築物が点在する旧居留地の中心に建つ。明治10年に建てられた地下一階、地上二階の旧東京銀行ビルを移築し、文化都市神戸の新しい核として、昭和57年(1982)11月3日にオープンした館内は、常設展示場と南蛮美術館・ギャラリーと大きく三つに分かれる。展示内容はいずれも「国際文化交流、東西文化の接触と変容」を基本テーマとして常設展示室には、原始時代から近代にいたる文化交流の様子を、南蛮美術館は、旧市立南蛮美術館の展示品を移したもので、中でも重要文化財の泰西王侯騎馬図屏風が展示され、また多くの作品が展示されていま
・南京町春節祭。南京町の活性化と日中友好を目的に毎年1月末から2月にかけて行われます(1987年昭和62年がはじめ)この祭りは豊作祈願を意味する龍舞、駆邪と降福を祈る獅子舞をはじめ、中国民族舞踊、中国楽器の演奏、太極拳の演武、仮装行列などが行われ、今では神戸の町に新春を告げる、神戸市内の代表的な祭りとなっています。
・六甲山。市内東部。六甲山は神戸市と芦屋・伊丹などの阪神間の諸都市の北部を東西に約50㌔にわたって走る連峰で、大阪湾を眼下に見下ろす展望と有馬温泉を有しドライブウェーも整備されているため、関西地方では最も親しまれている場所の一つです。この連峰は、瀬戸内海国立公園の区域内に含まれており。六甲山・摩耶山・再度山・鉄拐山・高尾山などが延々とつづく風景は雄大です。山中には原生林や・渓谷・などが、植物園・牧場・ゴルフ場などの観光施設も多く毎年国内外の観光客でにぎわいます。
・神戸市立森林植物園。市内北区山田町。 再度山の北西にある広大な森林植物園で約143万平方㍍内54万平方㍍が一般公開されている。日本暖帯林区・東南アジア区・中央アジア区・アメリカ区などに分けられ、約1200種、12万本の世界の樹木が植林されている。同じ再度山内に神戸市立教育植物園、再度山公園があります。
・神戸市立太閤の湯殿館。神戸市北区有馬町。 1999年4月に開館、館内には蒸風呂・岩風呂の遺構をそのまま取り込んで展示されているほか、茶器などの出土品、秀吉と有馬温泉の関係を示す資料などが展示されている。内装には襖絵や欄間彫刻の複製が取り入れられている銀泉の「銀の湯」、翌年に金泉の「金の湯」が開館しています。
・須磨浦公園。神戸市須磨区一ノ谷町。 須磨区西端の須磨浦海岸と海岸に迫る鉢伏山を中心とする自然公園で、神戸市が管理しています。須磨ノ浦は、「源氏物語」や謡曲「松風」の舞台となったところと知らています。近くに戦の浜・鵯越・一の谷・敦盛塚などの古戦場・史跡が多くあります。園内に正岡子規・高浜虚子の師弟の句碑があります。桜の名所でもあります。
・須磨離宮公園。神戸市須磨区東須磨。 横尾山南麓、須磨寺の東にある噴水公園。昭和42年に旧武庫離宮跡を整備し、公園として一般開放したもの。59年には植物園も増設し、緑の芝生や松林・四季の草花が彩ります。自然と人口物が調和し格調高いヨーロッパ風の公園となっている。
・県立明石公園・明石城。明石城跡を中心とした県立公園で閑静な桜堀・ひぐらし池・ボートが浮かぶ広い剛の池広い芝生、など自然環境に恵まれた憩いの場所です。野球場やスポーツ施設や自然が多く、正面入口には侍姿のロボット「とき打ち太鼓」があり人々に時を知らせています。明石城は別名「喜春城」と呼ばれ、1620(元和6)年小笠原忠真が築城しました。現在本丸南東隅の「巽櫓」と南西の「坤櫓」の二つの櫓が国の重要文化財に指定されています。両櫓とも三重三階の隅櫓で、千鳥破風・唐破風を組合せ総塗籠めの白壁に武者格子窓をあけており、桃山風の清楚な美しさを表します。
・明石天文科学館。明石市人丸。国際地球観測年を記念して、昭和35年(1960)東経一三五度の日本標準時子午線の通過する人丸山上に建てられた近代的な天文科学館。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で館が被害を受けたが平成10年3月15日に真相開館した。同年建設省発表した公共建築百選の一つに選定された。2010年(平成22年)に開館50周年を迎え、同時に建物が国の登録有形文化財に登録される。
・淡路島。淡路島は瀬戸内海国立公園の東部に位置する、面積約594平方㌔わが国三番目の大きな島です。気候は温暖で、柑橘類や花の栽培が活発です。わが国の神話にからむ古い由緒ある島で、万葉の昔から、歌や詩に歌われ神社、仏閣が多くあります明石海峡と鳴門海峡には「明石海峡大橋」「大鳴門橋」が架けられています。鳴門海峡には潮の干満のたびに直径30㍍に及ぶ、うず潮が現れ雄大な景観を作り出しています。平成7年の阪神・淡路大震災の被害を大きくうけました、現在はめざましい復興をつげております。
・野島断層 (北淡震災記念公園)淡路市小倉。1995年(平成7年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源として発生した兵庫県南部地震・淡路大震災)はM7.3最大震度7を記録、死者6434人行方不明者3人・負傷者43792人という戦後最大の被害をもたらした。この折の断層(野島断層)が地表面に残されています。(国の天然記念物)
・慶野松原。西淡町松帆。 町域北西端近くにある松林で、白い砂浜に約二・五㌔にわたって樹齢数百年の老松・奇松がおいしげっている。瀬戸内海式風景を代表する松林として有名で昭和三年(1928)国の名勝に指定され、平成八年日本渚百選に選定されています。
・淡路人形浄瑠璃。起源は定かではないが、16世紀にさかのぼるのでは。伝承によれば西宮神社につかえた百太夫という傀儡師が淡路の三条村(現南あわじ市市三条)に伝えたという浄瑠璃と三味線と人形操りが結びついてうまれた人形浄瑠璃は淡路を代表する民俗芸能です。
・阪神甲子園球場。甲子園球場は、大正13年(1924)甲子(きのえね)の年に作られた大球場で敷地面積約四万平方㍍、セントラルリーグ阪神タイガースのホームグランドで、阪神タイガース資料館を併設する。毎年春、夏高校野球大会が開催され高校球児の憧れのメッカとなっている
・西宮の「十日戎」。西宮市社家町。海上交易・漁業に霊験があるとして信仰されている「商売繁盛笹もってこい」の掛け声勇ましく正月の9日~11日まで行われ100人の人出で賑います。西宮の「えべっさん」と呼ばれています。西宮神社には大棟堀・表大門は国の重要文化財です
・宮 水。市内鞍掛・久保・石在。 六甲山に源を発し、夙川から浸透、鞍掛・久保・石在三町の浅井戸から湧出・取水される伏流水で、江戸時代、雑古屋文右門によって発見されたといわれる。宮水発祥ノ地碑と陰刻された石碑がたつている。有名な灘の清酒醸造は、この最上の仕込み水を得て全国に名を馳せるにいたった。
・白鹿記念酒造博物館。西宮市鞍掛町。阪神・淡路大震災で建物が一部傷んだが、1869年(明治2)建築の面影を残すため、当時の部材を用いて復興した酒造館で、酒つくりの歴史や伝統的な工程を知る事が出来る。灘酒造用具一式・酒造り用桶および樽造り一式は貴重な資料です南側の近代的な建物は、酒にちなむ美術工芸品や文献が展示されています。
・蓬莱峡。市内塩瀬町。 武庫川の支流大多田川の上流一帯は山肌が白くむき出し、鋭い岩峰が奇怪な形で連立している。この奇勝を蓬莱峡と呼び、昔からさまざまな伝説や奇談が伝えられている。岩峰は風化しており、大雨のあとは姿を返るので、訪れるたびに新しい光景を見出すことができます。
・芦屋市立美術館。芦屋市伊勢町。 芦屋の美術と歴史の両方を知る事が出来る複合施設です。美術部門では小出楢重・吉原治良らの絵画、中山岩太・ハナヤ勘兵衛らの写真集敷地には、伝芦屋廃寺心礎(県文化)がある。美術博物館前庭には、大阪城刻印石が展示され、東隣には芦屋市谷崎潤一郎記念館があります
・近松公園。尼崎市久々地。公園の南側の広済寺の慶内に門左衛門の墓がある。音曲の竹本義太夫と協力して、人形浄瑠璃を発展させ、多くの戯曲を残した。尼崎市は近松門左衛門を市を代表する文化人として、多くの文化行事を行っている。近松記念館が開館し、周辺も近松公園として整備されている。
・有岡城跡 (伊丹城)ー国史跡。伊丹市伊丹。南北朝時代、鎌倉幕府御家人伊丹氏によって建築されるも文明4年(1472)には改築され、それまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。その後荒木村重に攻められ落城し、村重も織田信長から謀反を疑われ一族郎党は六条河原や尼崎の七松で処刑される。村重は単身脱出しその後茶人道薫として、豊臣秀吉に仕える。利休七哲の一人。
・昆陽寺。伊丹市寺本。崑崙山と号し、733(天平5年)に行基が創建、聖武天皇の勅願所とした名刹で、畿内四十九院の一つです。行基が昆屋陽池を開削した折、かたわらに、旅人や病人ように小さな小屋を建てたが兵火により堂塔は完全に焼失し、現在の建物は江戸時代にたて直されたものです(県文化)この地は断層地形で、武庫川にそそぐ天神川や天王寺川の氾濫に苦しんでいたが、行基が猪名野笹原の開墾事業の仕上げとして、灌漑用のため池と洪水を防ぐ遊水地の二つの役割をはたすために五つの池を作ったといわれる。そのなかの最大の池が昆陽池である。多くの渡り鳥が飛来地とする池です。
・昆陽池公園。伊丹市昆陽池。僧行基によって開削されたと伝えられる昆陽池を中心にした市民公園、池の中央には日本列島を模した野鳥の鳥が浮かぶ、周辺では、春から夏にかけて白鳥やカモが多く見られます.
・多田神社。川西市多田院。 多田庄に本拠を構え、多田源氏を称した源満仲と、その子頼光・頼信、頼信の子頼義、頼義の子頼義の子義家を祀る。その後足利義詮が尊氏の遺骨を当寺に納めて以来、足利歴代将軍はみな当寺に納骨するようになった現在の本殿・拝殿・隋身門は徳川四代将軍家綱の再建になるもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。そのほかにも社宝がたくさん納められています。また広い境内は「多田院」として国の史跡に指定され、さくら・さつきの名所です。
・猪名川渓谷県立自然公園。川西市の北部から川辺郡猪名川町・多紀郡篠山町にいたる猪名川の上流に広がる猪名川渓谷を中心とした県立自然公園。本流の猪名川をはじめ、支流の阿古谷川一庫川などがいたるところに渓谷を作り、絶壁をバックに滝が落ちる北摂随一の奇勝屏風岩、竜化峡のどの奇勝がある。多田源氏ゆかりの多田神社・小童寺能勢妙見堂などの古社寺、史跡に富んでいます。
・宝塚大劇場。宝塚市栄町にある劇場・宝塚歌劇団の本拠地です。故小林一三氏が、宝塚の観光開発の大きな柱として大正三年(1914)「清く、正しく、美しく」をモットーに創設・育成した宝塚歌劇団のホームステージです。宝塚歌劇団は、宝塚音楽学校で教育を受けた団員で構成され、雪・月・花・星の四組が交代で出演している。国内のみならず、海外公演も行っており、映画・テレビに活躍するタレントも数多く輩出しています。
・東条湖。加東市。東条川の支流鴨川に、昭和26年(1951)に完成した灌漑用の人造湖常時850万㌧の水をたたえ、約34平方㌔の耕地を潤している。ひょうたん型をしており湖上には、水天宮・不動岩・屏風岩・妹背岩・五所渓谷・鞍馬峡・鷲ノ巣山・蓬莱峡の湖上八景と呼ばれる景勝地があります。
・篠山城跡。篠山市北新町。 (国史跡)1609(慶長14年)に松平康重が徳川家康の命により築いた平山城で、この城は大坂城包囲の要をなすとともに、山陰道の要衡でもあり西国大名ににらみをきかせる格好の立地であった。石高6万石で県内では姫路藩につぐ石高を誇ったのは篠山藩であつた。天守閣のかわりにあった大書院は1944(昭和19年)1月6日の夜の火災により焼失、2000(平成12)年に再建されたなを毎年8月中旬に、三の丸広場中心に丹波篠山デカンショ祭りが盛大におこなわれます、お徒士町武家屋敷群と篠山市立武家屋敷安間家資料館へも立ち寄ってみましょう。
・永澤寺と花しょうぶ園。関西花の寺二十五所霊場11番札所として、ハナショウブ・ボタンなど季節の花が観賞できる。この地には創建当時からノハナショウブが自生していると伝えられ永澤寺と道路を挟んで向かいに、1975年(昭和50)開園した花しょうぶ園があり3万3千㎡の敷地に650種300万本のハナショウブが6月~7月上旬にいっせいに咲き誇ります。
・竹田城跡 (国史跡)朝来市和田山町。 但馬守山名氏が、領国但馬をまもる拠点とした、堅固な石垣で戦国時代の日本を代表する山城で、また、しばしば円山川の川霧により霞むことから天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれ、雲海に浮かびあがる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。縄張りが虎の臥せているように見えることから別名虎臥城(とらふすじょう)とも呼ばれる。出石城・辰鼓楼・明治館・永楽館にも立ち寄ってみよう。
・玄武洞 (国天然)豊岡市赤石。現在は山陰海岸国立公園の一部として、玄武洞を中心にして南の青龍洞、北の白虎洞・朱雀洞とともに玄武洞公園として整備されている。この地形は但馬地方最後の火山活動の更新世末期(約5~1万年前)来日岳の火山活動で噴出した溶岩が付近一帯を覆いその後、冷えていく過程で、五角形や六角形の柱状節理(規則正しい割れ目)、それに直線的にまじわる板状節理で出来たものです。1925(大正14)年の北但地震で大きくくずれるも、当時のボランティアにより現在の形を保っている。
・コウノトリ保護増殖センター。豊岡市野上。 吉兆の鳥といわれるコウノトリハは、大きさや形がタンチョウヅルに似ており、たびたび混同されるが、むしろサギに近いコウノトリ科に属する鳥。樹上に巣をつくり、周辺の湿地に降りて小動物を捕食する。国指定の特別天然記念物です。明治以降乱獲により減少したが、現在は保護増殖が図られている。
・姫路城 (世界遺産)姫路市本町。 国宝に指定されている大天守・西小天守・乾小天守・東小天守、イロハニの渡櫓(附台所)1棟をはじめ74棟の建物が国の重要文化財ですお城の築城の歴史は鎌倉時代に1331年(元弘元年)赤村則村(円心)東上の途中砦を築いたのが始まり、戦国時代に羽柴秀吉が3層の天守閣の城を築き、江戸時代に入り、池田輝政が1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけ、秀吉の築いた城を取り壊して大修築を行ったとされています。白漆喰を塗り込めた外壁が輝き、唐破風・千鳥破風の屋根が幾重にも重なる姿がシラサギが羽を広げて飛び立つ姿に似ていることから白鷺城とも呼ばれている。
・好古園。姫路公園(姫路城)内にある日本庭園。正式名称は姫路城西御屋敷跡庭園好古園。江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むものです。好古園は姫路市制100周年を記念して造営され、1992年(平成4年)に開園した池泉回遊式の日本庭園です。姫路市立美術館・県立歴史博物館・市立日本城郭研究センター・姫路文学館など姫路城周辺には多くの文化施設が集中しており、城周辺の町並を散策しながらさまざまな角度からみあげる城の姿も美しく、城下町らしい趣があります。
・赤穂城跡。赤穂市上仮屋。 赤穂城が現在のよう規模に発展するのは、江戸時代初期の1645(正保2)年浅野長直が入封してからで、その後13年の歳月を経て完成したこの城は、背後に海をひかえ、本丸の周りに二の丸が同心円状に展開する「輪郭式」三の丸は本丸の正面(北側)にのみ広がる「梯郭式」の、いわゆる変形輪郭式の形式をとっている。赤穂城の主な建物は明治時代に廃棄され、大手門や隅櫓は1955(昭和30)年に復元されたものであります。しかし、大手門付近の枡形をはじめ、三の丸にある大石家長屋門(国史跡)その向かいにある源八長屋や、本丸周辺の石垣など当時を伝えるものも多い。近年、発掘調査と並行して本丸御殿跡の復元などが行われた旧赤穂庭園(本丸庭園・二の丸庭園)2002(平成14)年に国の名勝に指定されている三の丸にある大石神社や義士資料館など、訪れる人がたえない。毎年12月14日には「忠臣蔵」の赤穂四十七士にちなんで、義士祭が城下で行われます。(歴史散歩より)赤穂市立歴史博物館にも立ち寄ってみましょうよ~
奈 良 県
奈良県は、本州のほぼ中央、周囲を山岳に囲まれて紀伊半島の真ん中に位置し、南北に長く、東と南東は三重県、南西と西は和歌山県と大阪府、北は京都府に接する内陸県であります。南北に長い奈良県は県域のほぼ中央を西流する吉野川によって北部の奈良盆地を中央とする低地帯と、南部の山岳地帯に分れ、地形・気候・歴史とともに対照的な様相を示しています。奈良盆地の肥沃な地域は水田耕作に適し古くからひらけ、古代における我が国の政治文化の中心地でありました。奈良は京都と並ぶわが国有数の観光県であるが奈良市内のみならず、斑鳩・明日香・長谷・信貴山・生駒山と、奈良盆地一帯に古文化財・社寺・史跡などの見どころが豊富にあり、盆地全体が生きた博物館のようです。昨今では、吉野山の桜と史跡、大台ケ原、雄大な吉野熊野連山などの自然景観を求めて訪れる人も多くなりました。県域北西部を占める奈良盆地は日本古代文化の発祥地であり、県の中枢部であります。気候は一般に温和ですが、地形と同じで、北部と南部では大きく異なり北部では一般に温暖寡雨ですが、しかし大和高原・宇多山地などの山岳地帯は温度も低く降水量も多く周囲を山地で囲まれた奈良盆地では、夏は暑く、冬は寒い盆地性気候です。大仏と鹿と、そして古寺と・古美術の宝庫である奈良は、千年の古都として世界にも広く知られ、小・中学生から外国人観光客にいたるまで、各層各国の人々が訪れその数は年間1300万人を超えるともいわれる。幸いにして第二次世界大戦の戦火からまぬがれ、昭和25年には国際文化観光都市に指定され、世界の文化や国際親善にも大きく貢献しています。また昭和41年には、正倉院周辺、春日奥山に古都保存法が適用された。昭和63年「シルクロード博」が開催され、シルクロードを通した古都奈良の国際性がアピールされた。平成5年(1993),法隆寺地域の仏教建築群がユネスコの世界遺産条約に基づいて文化遺産に登録され、平成9年(1998)世界文化遺産に東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺 唐招堤寺、平城宮跡、春日原始林が登録された。
・奈良公園。奈良市。 奈良県奈良市にある都市公園。総面積502㌶の大公園で、興福寺・春日大社・東大寺・国立博物館から若草山・春日山と奈良の名所はほとんど公園の区域に含まれる国の名勝に指定されています。園内を群れ遊んでいる千頭余りの鹿は(天然記念物)奈良のシンボルとなり、観光客に親しまれている。公園内には多くの国宝指定物件や世界遺産登録物件が点在しており、国内外より多くの観光客が訪れています。園内の奈良国立博物館・旧帝国奈良博物館本館も訪ねてみよう~
・猿沢の池。奈良市橋本町。 奈良公園の入口にある周囲360㍍の小さな池で、池畔の柳や水面に映る興福寺の五重塔が美しい。古くから「猿沢池月」として南都八景の一つに数えられる名所です。この池は興福寺の放生池として造られ、4月18日の放生会にはコイ・フナなどが放たれます。采女祭りが毎年9月の中秋の名月の夜に行われます。帝に仕えた采女が帝の寵愛の薄れたのを嘆き入水したという、その采女を祀った采女神社が鳥居の背に後ろ向きに建っており、采女が入水した池を見るにしのびず社殿が一夜で向きをかえたという伝説。池の南東には入水の際采女が衣を掛けたという衣掛柳もあります。
・興福寺。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。奈良市登大路町。 興福寺は藤原氏の氏寺で、中臣(藤原)鎌足が大化の改新の成就を祈願し、その志を遂げたので釈迦三尊を造ったが安置する堂宇の建立を見ないうちに没したため鎌足の意志を継いだ夫人の鏡女王が山城国山科に創建した山階寺に始まるその後、天武天皇により大和の飛鳥浄御原に都が遷されると、寺も高市の厩坂に移され厩坂寺と呼ばれた。さらに和銅3年(710)の平城遷都とともに鎌足の子の不比等によって現在地に再度移され、名も興福寺と改められた。不比等は金堂を建立その後天皇の外威となるに及んで多くの堂塔・仏像が天皇によって造立された。五重塔・西金堂など、皇室と密接な関係を持つようになり、藤原氏の氏寺ながら官寺と同格に遇され、南都七寺の一つに数えられて隆盛を極めた。その寺域は四町四方(約50平方㌔)という広大さで、堂塔その他の建物は170余といわれた。その後、源頼政が打倒平家をはかるもやぶれ、藤原氏はその侍として源氏を起用していたので、残党は南都や南大和の源氏党のもとに逃れた。その追及と南都の反抗をおさえるため、平重衡は兵を南都に進め焼き討ちをかけたので、興福寺もほとんどの伽藍を焼失した。その後再興され、中世には大和守護職の実権を握って大和一円を支配し、数万の僧兵おかかえたびたび京都の朝廷に強訴した。やがて南北両朝の対立で興福寺もその渦中に巻き込まれ勢力は衰えていった。盛事には百数十棟の堂宇が建ち並んでいたが今は、東金堂・五重塔・北円堂・南円堂・大湯屋・中金堂など、鎌倉時代以降の建物と礎石が残されているだけだが、建物のほとんどが国宝・国の重要文化財に指定され、興福寺旧境内も国の史跡に指定されています。昭和33年に天平様式の国宝館が建てられ、館内には多くの天平・鎌倉期の仏像・仏具が収蔵されています。国宝館・五重塔・中金堂なども見て回ろう~
・衣水園。奈良市水門町。 奈良博物館の200㍍ほど北にある。面積約26500平方㍍東大寺の南大門と若草山・春日山・高円山を借景とした回遊式庭園で前庭と後庭に分れる。江戸時代南都随一の産業といわれた奈良晒の豪商清須美家の庭園だったもので、前庭は元興寺摩尼珠院の別宅のあった地で、庭内に三秀亭挺秀軒や清秀庵がある。東側の後庭には明治中期に豪商関藤次郎が建てた水心亭などがあります。池中の島には東大寺仏殿の礎石などが配されて池と緑と建物が見事な調和を見せ、ことに春秋の花どきがいちだんと素晴らしいです。昭和50年、国の名勝に指定されています。
・春日大社。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の一つとして登録。奈良市春日野町。 三条通りを上り、猿沢の池を右に見て興福寺南大門跡の石段下を東に行くと、東京極大路にでる、そこに一の鳥居があり、ここからが春日神社の境内で(国史跡)長い表参道が始まる。一の鳥居をくぐると右手に影向の松と呼ばれる松の大木がある。そこを過ぎていくと馬出橋があり、右手には片岡の梅林左に飛火野が広がる。一面を芝生が覆うこの辺りはよく鹿が群れ遊んでいます。まもなく参道は十字路になるが、そこが循環バスの春日大社前で、辺りは雪消の沢があり馬止橋を渡ると右は鹿苑になっています。この付近から参道両側の石燈籠も目立ってきます。約700㍍で二の鳥居へ、鳥居の手前には素木の車舎があり鳥居をくぐると左に祓戸社があります。参道の両側にはおびただしい石燈籠が立ち並んでいます。その大部分は庶民の寄進によるものですが、なかには仙台の伊達氏など大名の名も見えます。参道を上がると左に着到殿が見えさらに上がると左手に南門があり、南門は朱と緑の色鮮やかな回廊があり、回廊は本殿を巡っています南門を入った正面は幣殿・舞殿・左手は直会殿その奥は中門になって御廊が付きその奥に朱と緑に彩られた本殿が四棟ある。中門の西御廊から本殿左手の移殿へは捻廊が渡されている。移殿の北には厚い板を校倉状に組んだ室町時代のものといわれる宝庫がある。南門の回廊の内侍門を出たところに酒殿と寵殿がある。北回廊の北には板倉がある。この春日大社の社殿と回廊には1000余の釣灯籠があり2月の節分と8月15日にこれらの釣燈籠・石燈籠に一斉に灯がともされ、春日大社が最も優雅に美しく見えるときです。春日大社の創建には、神護景雲2年説と和銅3年に藤原一門の氏神として、藤原鎌足の子不比等によって創建されたという説がある。本殿四棟が国宝に指定されているほか、社殿二十七棟が国の重要文化財に指定されています。寺宝類にも国宝・重要文化財に指定されているものが多い。
・東大寺。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の一つとして登録しています。奈良市雑司町。 東大寺は聖武天皇の発願によって創建された寺で、光明皇后の勧めによると伝えられています。天平13年(741)聖武天皇は諸国に国分寺建立の詔を発し各国府の所在地に国分寺と国分尼寺を建立したが、東大寺は大和の国分寺としてまた全国の総国分寺を兼ねて造営され、正式には「金光明四天王護国之寺」と称した。一般には”奈良の大仏さん”の名で親しまれている。天平15年に廬舎那仏造立の詔が発せられ天平勝宝元年(749)に完成同4年に盛大な開眼法要が行られた。僧一万人が参加したといわれ仏教伝来以来の盛大な儀式であつたと伝えられていますしかし当時の堂塔は治承四年(1180)平重衡による南都焼き討ちによって興福寺とともに焼失してしまう。その後も何度かの歴史を繰り返し元禄年間に竜松院公慶の勧進によってふたたび工を起こし、徳川綱吉・桂昌院の援助を受けて受けて宝永六年(1709)に大仏殿は完成し今日にいたっている。当初に比べると規模は縮小されてはいるが、世界最大の木造建造物として今もその威容を誇っています。寺内の建築物には、奈良・鎌倉時代、その他中世のものが多く、彫刻には奈良・平安鎌倉時代を通じての名品が多い。また、東大寺文書をはじめ古文書類・書籍工芸品など貴重な文化財を豊富に保存しています。東大寺二月堂「お水取り」修二会の行事、1200余年の間一度も絶えることがなく奈良における最古の行事。二月二〇日から三月十四日まで参籠所で精進した僧でもって行わっる。水天の役・火天の役により松明をふりたてて焚く荒行が三月十二日から十四日まで行われこのお水取りが終わると、奈良にも春が訪れるとされています。
・正倉院。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の一つとして登録。奈良市雑司町。 正倉院は大仏殿の北西、松林の中にある奈良時代の建物で、東大寺の正倉であった。建物は校倉造りで屋根は瓦葺きとなっています。ここには、天平勝宝八年(756)、聖武天皇の七回忌に、光明皇后が奉納した天皇遺愛の御物をはじめ、大仏開眼供養の際に使用された仏具・調度品、その他の法会に使われた品々および古文書などが9000点余納められています。それらは奈良時代の美術工芸の枠を伝えるだけでなく、中国・インド・ペルシア方面から渡来したものも多数含まれており、東洋古美術の宝庫です。これらの収蔵品は奈良時代から、勅封として保存され、明治以降は皇室で管理してが、第二次大戦後は国有財産として宮内庁が保管することになった。昭和27年・37年に鉄筋コンクリート造りの近代的な設備をととのえた新宝庫が二棟新築され、宝物は新宝庫に移された。10月中旬から11月上旬にかけて蔵品の一部を奈良国立博物館に陳列し、一般に公開しています。皇室用財産が国宝に指定されるのは、これが初めてです。
・柳生の里。市内柳生町。 奈良市の東部、大和高原の北部に位置する山間の静かな小盆地であり江戸時代には将軍家指南役として天下に権勢をふるった柳生一万石の陣屋があった柳生新陰流発祥の地ある。かって正木坂にあった道場には、諸国から兵法者が参集し盛事には一万余名の門弟がいたといわれています。柳生十兵衛が諸国探索に出立する際に植えたといわれる”十兵衛杉”があったが落雷のために枯れてしまいました。昭和32年に、大柳生とともに奈良市に編入され今日に至っていますが、今は静かな山里で、かって武芸者が往来した柳生街道も路傍に点在する石仏とともにのどかです。柳生藩家老屋敷・旧柳生藩陣屋跡にも立ち寄ってみましょうよ。
・法華寺。市内法華寺町。 光明皇后が聖武天皇と亡き父母の冥福を祈って、父藤原不比等の邸宅を喜捨して寺にしたもので、天平十三年(741),諸国に国分寺・国分寺尼寺建立の詔が発せられた際、大和の総国分寺尼寺となり、法華免罪之寺と称されていた。今も門跡格の寺格をもつ尼寺であります。本堂には平安初期の名作である十一面観音立像が安置されているが、これは光明皇后をモデルにして、ガンダーラの問答師という仏師が彫ったものといわれています。国宝に指定されています。その他に沢山の重要文化財が保存されています。ここの庭園は京都の仙洞御所の作庭と通ずるものがあり美しい庭園で、客殿とともに県指定文化財となっています。本堂の東には、から風呂といわれる古い浴室がありこの風呂では、光明皇后がみずから1000人のハンセン病患者の体を洗ったという伝説がありますが、今の建物は室町末期のもので、蒸し風呂式となっている。
・平城宮跡。 <奈良の世界遺産> 特別史跡。和銅三年(710)、元明天皇によって飛鳥藤原宮から移された平城宮は、この地に皇居を置き、元正・聖武・孝謙・称徳(孝徳重従祚)・光仁・桓武天皇とつづく、七代七四年間の都であった。唐の都にならって造られたといわれる大路を碁盤の目のように整然と配し、中央北部に南面した平城宮が造営された。埋没した平城宮への関心は、江戸中期ごろから起こり明治時代さらに大正十一年に1922)国の史跡に指定されたままさらに歳月がたった昭和二七年(1952)国の特別史跡に指定された翌年、アメリカ駐留軍の軍用道路拡張工事で掘り出された一列の掘立柱の穴が発端となり、同三十年から奈良国立文化財研究所が継続発掘にのりだし現在も発掘・復元調査が進められている。周囲約4・6㌔約120㌶のほとんど全域が指定地域となっている。この調査から大極殿跡・第二次内裏跡・朝堂院跡官衙地区跡や多くの木簡が明らかになり、出土した資料は平城宮跡資料館に陳列されています。また、平城宮朱雀大路跡も古代の宮跡を知るうえの貴重な遺構とされ、国指定の史跡になっている。
・平城京左京三条二坊宮跡庭園。国の特別史跡、特別名勝に指定されている庭園。この庭園は奈良時代の原形をとどめる貴重な遺構です。池は玉石敷で延長55㍍、平均幅は15㍍で建物の遺構は異なった時代のもので、建物は池から遠く観賞用または使用できるようになっている。遺構は他に類をみないほど大規模で、保存も良く、古代庭園史上、学術的・文化的に価値が高く、国の特別史跡・名勝に指定されています。
・西大寺。市内西大寺芝町。 南都七大寺の一つに数えられた大寺です。称徳天皇の勅願により、天平宝宇八年(784)に起工され、翌年に、金銅四天王像の完成とともに開かれたもので開基は常勝である。この寺も承和一三年(846)以来、数度の火災により堂塔・仏像の多くを失った。鎌倉時代に叡尊が住職となってからは寺運も興隆し、諸堂も再建されている。その後文亀二年(1502)の火災で荒廃し天正年間(1573~92)には寺領も減らされ、今日残っているわずかな堂宇も江戸時代のもので、境内は国の史跡に指定されています。境内の金堂は、宝暦二年(1752)に建立されたもので,本尊の釈迦如立像他が安置されています。
・唐招提寺。市内五条町。 天平宝宇三年(759)八月、唐僧鑑真によって創建された寺です。天平五年(733)聖武天皇の命により苦難の末に天平勝宝五年に鹿児島に漂着、来日後東大寺大仏殿の前に、わが国初めての戒壇を設け、聖武天皇・光明皇太后孝謙天皇に戒をさずけたのち、五〇〇余人の僧にも受戒した。77歳で没したといわれています。山門には孝謙天皇辰筆の「唐招提寺」の勅額をかかげ、朝廷や貴族の尊敬も厚く最盛時には西山に四八院、学僧の数も3000人を数えた。江戸時代には、五大将軍徳川綱吉や桂昌院の寄進を受けて諸堂を修理され、明治33年に律宗の総本山となって今日に至っている。講堂・宝蔵・鼓楼・礼堂・戒壇跡などがそれぞれの美しさと、諸堂配置による構成美は、他では見られないものです。国宝や重要文化財が多く保存されています。
・薬師寺。市内西ノ京町。 唐招提寺の南、約800㍍にある。かってフェノロサが”凍れる音楽”と評した美しい三重塔で有名な寺。680年に天武天皇が菟野皇后の病気平癒を祈願して造営が始められ、天武天皇の死後、その遺志を継いだ持統天皇により、697年に完成したという。南都七大寺の一つに数えられるこの寺は、六条大路に面した南大門から入ると、東西に東塔・西塔・中央に中門・金堂・講堂が一直線に配され、周囲に回廊を巡らした、薬師寺式伽藍配置をもつ大寺であったが、天延元年(973)に金堂と東西両塔を残して焼失、その後も数度に及び火災によって、創建以来の建物は東塔(国宝)のみとなった。現在の建物は、東院堂(国宝)が鎌倉時代の再建であるほかは、江戸時代の再建であります。昭和五一年に復元・再建された金堂内の天平期の金銅仏薬師三尊像をはじめ東院堂の聖観音像や、仏足石およびその歌碑など貴重な国宝・重要文化財を多く所有しています。昭和五六年には西塔も四五〇年ぶりに再建、復元された。
和歌山県
和歌山県の自然景観。熊野信仰、と高野山信仰が全国に広がりを見せると共に、近世では徳川御三家の封土として発展し、現在では和歌山市を中心に臨海工業地帯としてさらに大きく飛躍した。こうした歴史のもつ本県は歴史景観に恵まれ、それを物語る遺跡・旧跡・文化財が多い。総本山金剛峯寺を中核に高野山、那智の滝で象徴される熊野三山、紀州藩の和歌山城などが、その代表格としてあげられる。また、これらの歴史的資源に加えて、この国の山河と海は美しく自然景観に恵まれている。指定公園も瀬戸内海と吉野熊野の両国立公園をはじめ、高野龍神国定公園があり、県立公園にいたっては十地区の多くを数え、国指定の特別名勝・天然記念物有名な瀞八丁、大小の島々を配した紀の松島、潮ノ岬・日ノ岬・和歌浦などの海岸美が見どころの中心で、素朴な景勝地もまだ多い。そして、白浜・勝浦の海の大温泉郷や、古くから知られる龍神・川湯温泉などがあり、紀州の旅情をかきたてずにおかない魅力となっている。
和歌山市。徳川御三家の一つ紀州藩五五万五千石の城下町として発展したところ。和歌山県の政治・経済・文化の中核をなす県庁所在地です。和歌山城・紀三井寺など豊富な文化財と歴史に富んだ古社寺や史跡の多い見どころのあるところです。
和歌山城。和歌山市一番町、市のほぼ中央部、紀ノ川と和歌山に挟まれた虎伏山にあり、紀州藩徳川氏歴代の居城跡で、城は、城地の地名から虎伏城とも、竹垣城とも称せられた。明治時代には廃藩にともなって、廃城となり、建造物も逐次取り壊され天守閣も破壊されようとしたが、時の和歌山区長らの反対でそのまま残された。しかし昭和二〇年に戦災により焼失。今の、鉄筋コンクリート造り、三層の復興天守完成したのは昭和三三年である。天守閣の中には郷土資料館、物産展示場となっており、遺跡から発掘品や武具・絵画・古文書類など、紀州藩徳川家ゆかりの所蔵品が陳列されています。三階に登ると眺望も素晴らしい、城跡には、常緑樹と落葉樹が混生している。桜の木も多くシーズンには花見客でにぎわう。
・和歌の浦。和歌山市南西部、和歌川下流右岸と和歌浦湾北岸一帯をいう。片男波と名付けられた長い砂嘴を挟んで北東の和歌浦、北西の新和歌浦、それにつづく奥和歌浦に三分される。当代の名だたる歌人に読まれた歌枕の地は、新和歌浦でなく、今の片男波の入江とされている。ここは和歌山と紀三井寺川が注ぎ込み、湾の北西隅に、妹背山という小島がある。島は、中国の西湖に模して造ったという三断橋で陸と結ばれている、島内には観海閣・多宝塔・下り松などがある。近くには紀州徳川家ゆかりの古社寺が散在する。和歌の浦は平安の昔から万葉集の歌枕として詠まれた景勝の地、夕陽の美しい.平成22年8月に「和歌の浦」が国の名勝に指定された.
・和歌山祭り。元和八年(1622)、藩祖徳川頼宣が東照宮の大祭として、四月と九月に行ったのが始まりで、とくに徳川家康の命日にあたる四月一七日の東照宮祭りは、春祭りとも称し、城中・城下をあげて渡御行列に参加し、行列の進む沿道には桟敷を設け、沢山の見物客で賑わったとという。現在も市内最大の祭りで、五月に第二土・日に行われています。すごく盛大ですよ。
・養翠園。和歌浦の北方、水軒川の河口にあり、大浦湾臨んでいる。紀州一0代藩主徳川治宝が八年の歳月をかけ、西浜御殿の別邸として造営したもので、広さ約三万平方㍍の池泉回遊式の庭園で、大小の池泉を中心に黒松の老樹が茂り、借景の山々が水面に影を落とす。池辺には回遊路を設け、中島にいたる小径には三つの太鼓橋をかけている。園内の養翠亭は文政四年建立の簡素な数寄屋風建築で、庭園を見下ろす高所に位置し、間取りは御座の間・次の間・御用人詰所などで、特に御座の間に通じる廊下は、左斜め登り廊下という特殊な構造になっている。江戸後期の代表的な武家庭園として、国の名勝に指定されている。
・瀬戸内海国立公園。紀淡・鳴門・豊予・関門の四海峡に区切られた瀬戸内海の主要部分を占める一大海洋公園。雲仙天草国立公園とともに、昭和九年、わが国最初の国立公園に指定された。指定区域十県にまたがる。点在する大小約六〇〇の島々、自然林に覆われた沿岸の風光など、佳景このうえない内海風景を展開している。和歌山県側では、和歌浦・加太・友ヶ島の一帯がその区域に含まれている。
・玉川峡。市内椎出町域の中央部、この渓谷は、奇岩怪石の間に大小の滝を連ねる景勝地で、県指定名勝。見どころは雨の森・千国橋・三ッ滝・亀石・猿飛石・碧渕・丹羽の滝などがあります。変化に富んだ渓谷美を堪能できますアユ釣りの名所としても知られ多くの釣り人や、ハイキング客が訪れます。
・温山荘庭園。和歌山県海南市船尾にある日本庭園で、国の名勝に指定されている。大阪の実業家、新田長次郎の別荘に築造された庭園で、黒江湾に面した自然の地形を巧みに利用している。園内の大小の池を中心に、石灯籠や青石を配した景趣をそえている。現在は一般に公開され、市民の格好の散策地になっており、十月下旬から一か月にわたって開かれる菊花展には、多くの観賞客で賑わいます。
・高野山。紀伊山地の支脈長峰山脈の東、「八葉の峯」とも呼ばれ一〇〇〇㍍前後の山々に囲まれ、標高八〇〇㍍の山上に位置する平坦地を総称する。弘法大師空海がここに密教の堂塔を開いた、現在山上には、総本山金剛峯寺を中核とする一二〇余の山内寺院他、巨大な墓石群で知られる奥の院がある。元は新鮮な霊場であったが今では観光都市的な性格を強めている。沢山の文化財があります。
・次の滝。有田町延坂、早月谷川沿いにある延坂の集落から、少し北に入った山中にあり高さ四六㍍余の滝で、県下の那智の滝に次ぐというので、この名がつけられた。水量は少ないが、岩壁にかかる爆水は繊細で、一条の布が垂れたように見えて美しい、初夏の新緑、秋の紅葉期は見事な景観を見せる。
・煙樹ヶ浜。美浜町和田。日ノ岬半島の木ノ脇から日高川河口にいたる、砂丘海岸をいう、周辺は煙樹海岸自然公園に指定されている。砂丘の背後には全長六㌔にわたり整然と松林がつづき、その規模と見事な繁茂ぶりは、日本一と評判が高い。この松は初代紀州藩主徳川頼宣が防潮林として植えたもので、御留山として伐採を禁じていた。今も美浜町の田園地帯の潮害から守っている・日ノ岬(日ノ御碕)。美浜町三尾。紀伊水道の南入り口。岬一帯は煙樹海岸県立自然公園に入る。園内には日ノ御崎灯台・日の山御崎神社・大賀池など見どころが多い。県下でも代表的な観光地の一つで、四季には行楽客で賑わう。紀伊連峰・淡路島・六甲山を遠望できる、また、眼下には海猫島・アメリカ村などが望める。
・道成寺。日高郡日高町にある天台宗の寺院。安珍・清姫の物語で名高い。文武天皇の発願により、紀大臣道成が天皇の勅を奉じて創建。道場の名をとって道成寺を命名したという。発掘調査で、八世紀初頭の伽藍跡が確認された。道成寺駅に降り立つと、北方の山腹に能の「道成寺」ども有名な六二段の石段と仁王門がみえる。このほか境内には、安珍を埋めたところという安珍塚、鐘楼跡などがあり、少し離れた田の中に大蛇になった清姫を埋めた蛇塚がある。春には入相桜や千本桜が咲きほこり多くの人で賑わう。国宝や国指定重要文化財が見れる。
・龍神村。紀伊半島の中央東部に位置し、見どころは県指定の天誅倉、平家落人伝説の残る小森谷渓谷、曼陀羅の滝などがあり、また日高川流域に湧く龍神温泉があり、この温泉は古くから知られる紀州の名湯です。
・南部梅林。日高郡みなべ町。南部川河岸段丘に、四㌔にわたって、約三〇万本のうめが植栽されている。とくに晩稲の香雲丘から見下ろす眺めは、まさに「一目百万、香り十里」の眺めと、名実ともに日本一の梅林で、白くかわいい花が山一面に飾る。開花期の一月下旬から二月下旬にかけては、観光梅林ととなり、梅まつりも開かれます、特産の梅干しを売る店で賑わいまう。
三 重 県
県内での宿泊客が575万人余、特に鳥羽市や志摩市、津市、桑名市などに多く、温泉地の開発が急速に進んだことから多くの温泉宿泊客が増加している。
・安楽島。2010年温泉地宿泊数682千人と急速に増加している安楽島、鳥羽湾に面した温泉で、湯元「海女乃島」があり平成11年以降年間宿泊客増加の一途をたどっている。真珠湾・鳥羽水族館・二見ヶ浦・伊勢神宮などの観光も楽しめます。
・榊原温泉。三重県津市榊原町にある温泉、七栗(ななくり)の湯とも言われる。恋の湯治場 榊原温泉 ~お伊勢さん湯ごりの地~ 榊原温泉は古い歴史のある温泉で、平安時代に湯冶場として知られ、枕草子に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記載されており「日本三名湯」に数えられている。江戸時代、伊勢参りが盛んになり、七栗の湯はお参り前の身体を清める為の湯として知られるようになり、多いに賑わいをみせた。のどかな田園風景の中で”清少納言が浸かった湯”と想像しながらゆっくりするのも楽しいものでは。
滋 賀 県
滋賀県の宿泊客数は全国33位(24年7月~9月・観光庁)約124万人強、県内の温泉地別宿泊客数は雄琴が約39万と最も多く、それに続いて米原市、長浜市となっており、落ち着いた温泉場を整備している
・雄琴温泉。比叡山を背にし、琵琶湖に面する位置にある。約1200年前に伝教大師により開湯されたといわれる、ラジウム温泉で、現在各温泉旅館、ホテルがそれぞれの個性をだして、多様な顧客の満足度を高めることに努めています。
・石山温泉。琵琶湖南端近くの名刹石山寺の門前町にあり、ひき湯による温泉地です。温泉は昭和の38年に発見された。瀬田川の河岸に沿って和風の旅館が並び落ち着いた環境にあります。周辺には史跡や、紫式部がここで源氏物語を構想されたとの伝えも残っています。現在は京阪神からの観光客が多く訪ねてこられます。
・須賀谷温泉。小谷山の南東麓、緑濃い山里にある。昔浅井長政やお市の方が通ったという古い温泉場。現在こじんまりとした旅館が一軒あり、湖北観光の足場によい。また多賀谷は、戦国時代の武将、片桐且元の屋敷跡が残っている。
京 都 府。
・木津温泉(きつおんせん)京都府京丹後市網野町木津にある温泉、奈良時代に僧行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承をある、京都で最古の歴史ある古湯。湧出量も豊富で、四軒の宿や民家にも配湯しているほどである。松本清張がこよなく愛した温泉、皮膚病にも良いと、知られている温泉。
・十津川温泉郷。(とつかわ温泉)奈良県吉野郡十津川村に涌く3つの温泉。十津川温泉・上湯温泉・温泉地温泉(とうせんじおんせん)の総称。
・十津川温泉。十津川村で最も多くの旅館や商店が集まって賑っている。元禄年間に発見したと言われる下湯を源泉としている二津野ダム湖畔の温泉地
・上湯温泉。十津川温泉から西へ約5kmの上湯川に涌く温泉。享保年間に里人が見つけたといわれている、大自然の中のしっとり落ち着いた秘湯。
・温泉地温泉(とうせんじおんせん)十津川のほぼ中央に位置し、歴史は古く1581年佐久間信盛が訪れたといわれている。源泉より十津川に沿って旅館・民宿が点在する山峡の情緒を味わえる温泉(十津川村観光協会公式サイトより)十津川村ある日本一 ・日本一大きな村 ・日本一の鉄線つり橋 ・日本初源泉かけ流し宣言・日本一長い路線バス ・日本一オシドリ越冬地 ・日本一親切な村
・天橋立温泉 (あまのはしだて)京都府宮津市にある温泉日本三景である天橋立を望む名刹、文殊堂で有名な智恩寺の門前である、文殊地区には元々、観光拠点としての多くの旅館、ホテルが集中していた。同温泉は既存の旅館街に誕生した温泉で、1999年(平成11年)にボーリングに成功しその泉質はかなり濃厚で、美肌効果が高く評判を呼び成功を収め、今では夕日ヶ浦並びに丹後地区有数の温泉郷となった。現在近郷に3ヶ所の温泉に、日帰り入浴施設「智慧の湯」があります。 日本三景 宮城県陸前「松島」、広島県安芸の「宮島」、京都府「天橋立」
大 阪 府。
兵 庫 県
・武田尾温泉。宝塚市玉瀬にある温泉。 武庫川上流の渓谷沿いの静かな温泉郷であるこの温泉は寛永年間(1624~43)、武田尾直蔵が猿のみちびきによって発見したという伝説があり、以来ひなびた山の湯として知られている。福知山線の開通によって発展した。周辺はハイキングの好適地で近くにワカサギ釣りのできる千刈池があり、周辺の山林ではマツタケ狩りが楽しめます
・有馬温泉。有馬温泉は兵庫県神戸市北区にある温泉。日本三古湯の一つ、林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付で当時の最高位、西大関である。日本を代表する名泉の一つである。発見ー神代の昔、大己貴命と少彦名命の神が有馬を訪れたとき、三羽の傷ついたカラスが水浴していましたが、数日で傷が治っており、その水溜りが温泉であったと伝えられている「有馬の三羽からす」と呼ばれている。歴史ー有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代序舒明天皇(593~641)、第36代孝徳天(596~654)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり一躍有名になる。その後徐々に衰退に向かっていたといわれますが、これを再興し有馬の基礎を開いたのが名僧行基であるとされており、(薬師如来が行基の徳を感じ、温泉復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとされています。その後、「中興の仁西」「再建の秀吉」の尽力などで現在に至った。仁西ー高原寺の住僧、夢のお告げを「摂津有馬の山間に温泉がある、近頃、はなはだ廃しているにつき、行って再興せよ」そこで、里人集め泉源をさらえ、承徳の洪水より一世紀に及ぶときを経て有馬温泉の復興に成功した。温泉の復活と共に、温泉寺を改修し12の宿坊を営む(現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものと云われている)秀吉ー秀吉天下統一の地固めに目途が付いた天正11年(1583年)有馬を訪れ戦で疲れた心身を有馬の名湯で癒す。その後も再々にわたり有馬を訪れ様々な援助を行った。その後慶長伏見地震で、建物の被害以外に深刻な問題として、温泉の温度が急上昇となり、この根本的な改修工事に着手する、完成前に没す。この頃「坊」も20にふえ旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊が入るように決められていた。坊の下に「少宿」と称する宿舎が作られるようになり、宿泊施設も充実していく。江戸時代ー庶民も社寺参拝や、湯治に出かけるようになり、この旅の手助けをしたのが、道標です。有馬の街でも見かけることが出来る。(有馬温泉観光協会公式サイトより)私達も何度も訪れたところ、また何度となく訪れたい温泉。
・籠坊温泉。兵庫県篠山市にある温泉。 今から約800年前、源氏の兵に追われて逃延びた平家の落武者が発見したと言われる古い由緒をもつ温泉で、猪名川渓谷の最も深い山峡にあり、俗界をはなれて大自然の息吹を身近に味わう事の出来る渓谷沿いに三軒の旅館がある。星空の綺麗な、流星を楽しむスポットでもある。
・塩田温泉。兵庫県姫路市夢前町にある温泉。 夢前川沿いに湧く炭酸泉。当たりはのどかな田園地帯で、河畔の桜並木が美しい江戸時代から胃腸病に効く湯治場として知られている。夢前川でのアユ釣り、付近の山中でのキノコ狩りやクリ拾いと季節の楽しみにも恵まれている。
・城崎温泉。兵庫県豊岡市城崎町にある温泉。コウノトリが傷を癒していたことより発見されたとの伝説がある。江戸時代の温泉番付で西の関脇(最高位大関、西の大関有馬温泉)にランクされている古湯、近郊の藩主や藩士が多数訪れ、賑わいをみせた。 日本海に注ぐ円山川の支流、大谿川沿いに温泉街が立ち並ぶ。1925年(大正14年)の北但馬地震で町は全焼するが、翌月には多くの客が城崎を訪れていて湯が沸いているかぎり客足は絶えなかったと言われている。現在の和風木造3階建ての町並みの多くは震災復興の時の建物か、その時の建物に由来する。今は各旅館とも内湯を有しているが、規制等により大きさが大旅館でも大きくなく、旅館宿泊者は全外湯の入浴料を免除する制度を採用したことから、浴衣姿、下駄履きで外湯めぐりが名物となった。(一の湯、まんだら湯、さとの湯など)その後、高度成長にあわせ温泉ブーム到来により、城崎温泉は巨大な観光地となった。城崎は文学の香り漂う町で、志賀直哉、島崎藤村、田山花袋、泉鏡花、司馬遼太郎、与謝野鉄幹,晶子数多くの文人墨客がこの温泉を訪ねている。
・浜坂温泉郷。兵庫県浜坂町にある温泉。 浜坂の海岸に近い岸田川のほとりに生まれた温泉で浜坂温泉・二日市温泉・七釜温泉の総評。昭和三十八年(1963)に誕生、平成3年に国保養温泉地に指定されて以来、豊富な歓光資源にめぐまれた浜坂町の新しい観光地として知られている。
・湯村温泉。兵庫県美方郡新温泉町にある温泉 。兵庫県北西部、日本海側の山陰地方に位置し、鳥取県に接する地域で南部は「氷ノ山・後山・那岐山国立公園」に指定され、豊かな自然環境に囲まれています。岸田川の支流、春来川のほとりに涌く日本屈指の高熱温泉です。開湯は、嘉祥元年(848)年といわれ、今からおよそ1150年前に慈覚大師によって発見されたと伝えられている古湯であり、元湯は「荒湯」と呼ばれる98度の高温泉が毎分470ロットルも湧出しています。(「新湯」で温泉卵を茹でるのも湯村独特の風景です、湧出量が豊富な温泉のため、旅館だけでなく各家庭にも配湯され、生活に欠かせないものになっている。露天風呂では、森林浴と温泉浴、日光浴を、湯村大根物語「ふれ愛の湯」-74人が入れる公衆足湯を、またアオギリの湯。薬師湯などを愉しんでください。吉永小百合主演のテレビドラマ「夢千代日記」で、全国的に名をとどろかせる。
・洲本温泉。洲本市小路谷に位置する温泉。 背後に洲本城のそびえる三熊山を控え、前は素晴らしい古茂江の岩石海岸がつづいている、洲本市の観光淡路島の基地となっている。釣りや行楽を楽しむ阪神方面からの客が多い。近くにはバンガロー村も開放されている。
・奈良県・平成26年3月末、施設宿泊利用人数526千人(全国40位)・施設数69.。紀伊半島の中南部、温泉地温泉、十津川温泉、上湯温泉の3温泉地が国民保養温泉地に指定されている。多くの遺跡、史跡、神社仏閣が多く国内有数の観光地になっています。
・十津川温泉。奈良県十津川村天禄年間に炭焼き人夫が発見したといわれる下湯を源泉としている二津野ダム湖畔にある温泉地で、この村には高さ54㍍長さ297㍍の日本一長い谷瀬の吊り橋や、周辺の瀞峡、熊野本宮、湯の峰温泉、那智の滝や勝浦温泉を訪ねることも出来ます。
・洞川温泉。修験道の聖地である大峰山の登山口に湧く秘湯で、1300年ほど前に開かれた温泉地で、女人禁制の、温泉地の旅館もその特性を生かした様式を伝えている。平成5年には観光客や登山者の要望にも対応すべく日帰り温泉施設も開設されている。関西の軽井沢の呼び声もある。昭和の雰囲気を漂わせる雰囲気を醸し出している。
和歌山県
和歌山県。宿泊施設数213軒。年間延べ宿泊利用人員3847千人強(平成28年3月末).主な温泉地として、白浜・那智勝浦の2大観光温泉地があり、豊富な温泉資源を有し、国民保養温泉地として熊野本宮・龍神温泉が指定され、紀伊山地の山峡の湯として知られています。
・南紀勝浦。(なんき かつうら温泉)和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある温泉。南紀白浜と並ぶ南紀を代表する大温泉郷、勝浦、紀ノ松島をひかえ、入り組んだリアス式海岸線と奇岩怪石が訪れる人を魅了する温泉地。源泉の数は優に100を越える、各旅館が自分の源泉を持っている。紀州徳川15代徳川頼倫が入浴し賛美した「忘帰洞(帰るのをわすれる)」と「玄武洞」の自然洞窟の浴場があり、またマグロ漁基地や、熊野古道、那智の滝などを目的とする行楽客が多数である。近年になってから「南紀」が冠するようになる。近畿圏では「勝浦」だけで当温泉地をさしていた。
・白浜温泉。和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉。白浜温泉は日本三古湯(白浜・有馬・道後)にまた三大温泉地(白浜・別府・熱海)で知られる温泉地です。白浜温泉は田辺湾から鉛山湾に面した白浜にかけて涌く、新白浜、古賀浦、大浦、網不知、東白浜、白浜、湯崎などの総称です。飛鳥、奈良時代から「牟婁の湯」「紀の温湯」の名で知られる、斉明、天智、持続、文武天皇をはじめ多くの宮人が来泉された1350年余りの歴史を持つ由緒ある温泉観光地である。湯崎七湯に数えられる崎の湯(露天風呂)、砿湯(牟婁の湯)は、白浜温泉の最も古い歴史を残している。南紀白浜外湯めぐり。壱・崎の湯ーかって湯崎七湯といわれた外湯の一つで、波打ち際で入るお風呂です。弐・牟婁の湯ー「まぶ湯」「行幸湯」の2種類の温泉が楽しめる。参・しらすなー白良浜海水浴場にあり、水着で入れる温泉露天風。四・白良湯ー白良浜に面しており、海を眺めながらお風呂につかれる。五・松乃湯ー円月島を眺めながらはいれます、地元の人々の憩いの場になっています。六・網の湯ー万葉の歌人が愛した美しい海辺に新設された”源泉かけ流し”の浴場。他にたくさんの「外湯」「足湯」があり温泉の宝庫です。
・湯の峰温泉。和歌山県田辺市にある温泉。熊野詣において湯垢葉場として栄えた日本最古の湯、開湯1800年、四世紀ごろに熊野の国造、大阿刀足尼(おおあとすくね)によって発見され、後に歴代上皇の熊野御幸によってその名が広く知られるようになった。日本最古の湯と知られる湯の峰温泉は、今も昔ながらの温情緒を残し、湯の町の風情を感じることが出来る。日に七回も湯の色が変化するといわれている天然温泉岩風呂「つぼ湯」は参詣道の一部として世界遺産に登録されている。
・川湯温泉。和歌山県田辺市にある温泉。全国でも珍しい、自分だけのオリジナルな露天風呂がたのしめる温泉。川底から絶えず湧きでる70度以上の源泉に、熊野川の支流大塔川が混ざり合い程よい温泉が出来上がる、夏は川遊びで冷えた身体を温め、冬は冬の風物詩と呼ばれ親しまれている「仙人風呂」を愉しんでみては。
・渡瀬温泉。和歌山県田辺市にある温泉。川湯からトンネルをくぐると、四村川に囲まれた釣りや川遊びが楽しめる人気のアウトドアエリア渡瀬に到着します。クアハウス熊野本宮やバンガロー、などが点在し、リゾート感覚で楽しめます。
・龍神温泉。和歌山県田辺市龍神村にある温泉。紀州の尾根、護摩壇山の懐深く日高川の渓谷に涌く龍神温泉は、島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とならび、日本三美人の湯として有名です。開湯の歴史は古く、八世紀初め大和国の修験者によって発見され、その後弘法大師が難陀竜王の夢のお告げによって開湯下と言われている。元湯のうち湯は大勢が一度に入ることの出来る檜風呂と岩風呂があり、浸かって見ると美人の湯の名の通り、スベスベになる、また渓流を眺めながらの露天風呂もバッグンである。日帰り温泉小又川温泉、深谷荘・丹生ヤマセミ温泉館・釜ノ崎温泉、がま湯にも訪ねて見たいですね
・湯川温泉・県南東部、那智勝浦温泉の南西に隣接する静かな温泉地でで「紀州・湯のくに」といわれるほどの名の知れた温泉です。歴史的には、熊野詣での参拝客が旅の疲れを癒し、身を清めた「湯垢離場」の名残のある温泉地です。
鳥 取 県
鳥取県の観光資源。中国地方随一の高峰を誇る大山とその連峰の大山隠岐国立公園、山陰松島と呼ばれる断崖と岩礁の浦富海岸、それに連なる鳥取砂丘一帯の山陰海岸国立公園がある。地形は獲物に襲いかかろうとしている雄獅子の姿にたとえられる。県立公園には三朝東郷県立公園、西因幡県立自然公園に奥日野県立公園があります。広くない県内には国立公園二、国定公園二県立公園三を持っており、まさに全県公園といえる。また多くの神社・仏閣・史跡・旧跡など、文化遺産に恵まれており、見どころは少なくない。岡山との県境を白山火山帯が走っているため温泉にも恵まれ、岩井・鳥取・浜村・吉岡・鹿野・三朝・関金・東郷・淺津・皆生など多くの温泉がある。
・鳥取市。県の文教・政治・経済の中心地、市内外の観光地への基点で、有名な鳥取砂丘や浦富海岸・湖山池・吉岡温泉・岩井温泉など、すべて鳥取市を経由している。見どころは鳥取城跡、観音院庭園、県指定天然記念物の中の茶屋の一里マツなど多くあります。郷土芸能も多く、越路雨乞踊り、双盤念仏、因幡の傘踊りなどが知られています。いずれも県指定の無形民俗文化財になっています。八月一五・一六日のしゃんしゃん祭りは市を代表する年内行事の一つです。
・鳥取城跡。城は天文一四年、因幡山中氏一四代誠通氏が天神山城の出城として山頂部に山上の丸を構築したのがはじめといわれる。幾多の城主の歴史が残されているが、維新後陸軍省の所管となり、建造物は明治十二年にすべてを取り壊されたが、山上に天守閣・月見櫓・車井戸跡、西麓に二ノ丸・天球丸・馬場跡などの石塁や石垣が残って昔をしのばせる。現在は久松公園となっており、県立博物館などもあって、市民の憩いの場として親しまれているが、その遺構は、戦国争乱期の山城から近世の平山城・平城への移行過程を示すものとして学術的にも貴重とされている。秀吉が鳥取攻めの時に陣を構えたという太閤ヶ平を含めて、国の史跡に指定されている。
・仁風閣。大正天皇の山陰行幸の折の宿舎として明治三大宮廷建築家の一人片山東熊氏といわれている建物で、ルネッサンス様式を基調に木造二階建てで東側には八角尖頭型の階段室が付設され、正面には玄関ホールが設けられている。昭和四七年まで、県立科学博物館として使用されてきた。山陰地方には数少ない明治洋風建築として貴重なものです。国の重要文化財に指定されている・太閤ヶ平。市内栗谷町。久松山の東北にあり、本陣山とも呼ばれている。豊臣秀吉が鳥取城を攻めた時、この山の頂上に土塁、空濠をめぐらして本営を置いた。秀吉独特の素早い築城法でこの陣を構築したといわれ、千成びょうたんを模した土塁の跡が現存している。山頂付近は自然公園として整備されております。
・白兎海岸。「因幡の白兎」で知られているところで、白兎トンネルの手前に広がる広大な砂丘海岸は、夏期には、山陰地方有数の水のきれいな海水浴場として賑わう。付近には伝説の場所、気多前・オキノシマ・杖衝坂・恋島・身干山などがあって、景色の美しい海岸です。
・鳥取砂丘。市内浜坂、鳥取市の北、日本海に臨む海岸一帯が鳥取砂丘で、東が岩美郡の駟馳山の麓から白兎にいたる東西約一六㌔南北二㌔余の幅でひろがっている。砂丘は浜坂砂丘と白兎砂丘からなり、一般には浜坂砂丘を鳥取砂丘と呼んでいる。観光施設も多く、バスなどの交通機関の発着や、旅館・国民宿舎・土産物屋などが軒を連ねている。付近には、砂丘展望台・リフト・ゴルフ場・ナシ園・青年の家・砂丘研究所などがあり、千代川河口の十六本松は景勝地として有名で、夏のキャンプ場に好適な場所です。日本離れした雄大な景観を呈している。
・浦富海岸。岩美町北部、岩美町の日本海岸部一帯をさし、沈降によって生じた複雑な海岸線と、荒波の浸食作用をうけて奇岩・岩礁がところどころに突出する独特な景観で知られる。その眺めが仙台の松島に似ていることから「山陰の松島」の別称もある。国指定の名勝・天然記念物です。この海岸は、浦富を中心にして東部海岸、西部海岸からなりっている。浦富の東方に、兵庫県との境をなす陸上鼻までが火成岩と集塊岩でできているため、陸上岬と羽尾岬の断崖絶壁に、白砂青山の東浜・牧谷・浦富などの遠浅海岸を連ねている。絶景の多いのは西部海岸で、浦富から海辺に岐立する休火山の駟馳山までのおよそ五㌔の間は、水の浸食を受けやすい花崗岩のため波浪が天然の彫刻を施している。この浦富海岸中でも、田後から城原・賀茂が磯を経て網代まだが最も美しい。夏は多くの海水浴でにぎわいます。
・因幡の傘踊り。江戸末期、因幡地方は空前の干ばつに見舞われた。そんなある日、老農夫五郎作が雨乞いを三日三晩、狂ったように笠を打ち振りながら踊り続けた。三晩目に、不思議なことに大豪雨となり、田野を潤した干ばつも一夜にして解消したがしかし村を救った五郎作は踊り疲れて帰らぬ人となってしまい、村人たちはその年の盆から五郎作の霊をなぐさめるため、傘踊りを始めたのが、今日の傘踊りの起こりである。県の無形民俗文化財に指定されています
・雨 滝。国府町、扇ノ山に源を発する袋川の上流にある滝で、高さ四〇㍍、幅四㍍の飛瀑です。原生林に覆われ、玄武岩の見事な柱状節理により生じた断崖絶壁から、轟音を発して落水するさまは神秘的な幽境を思わせる。平成二年には「日本の滝一〇〇選」に選定されている。
・三徳山。県を代表する名山の一つで、山域一帯が国の名勝・史跡に指定されている。三朝温泉の東方約八㌔、三徳川の渓流をさかのぼったところにそびえる、全山が千古の原生林に覆われ、山容はやや急俊である。この山は北方と南方の限界点にあたるため、さまざまな植物分布を見せ、群落構成上からも学術的興味を寄せられている。景勝地は麓の門前から始まり、そこは渓谷で険しい絶壁が渓流に迫るさまは実に奇観です
・小鹿渓。東伯郡三朝町東小鹿。三朝川の支流、小鹿川にかかる渓谷で、上倉の東方丹戸から始まり、中津入口まで約四・三㌔の間をいい、国指定の名勝です。景観の中心は雄渕・雌渕辺りで、そこにいたるまでには、丹戸漂・五郎渕・懸布滝・雨垂滝などがあり、そこを過ぎると、広々とした弥六渕に出、そこには水晶滝が水煙をあげて落ちている。雌渕に架かる玉藻滝の上流には、百畳敷きの化粧岩があり、少し行くと青々と緑水をたたえた深さ一0の雄渕で、そこには、よじれながら落ち込む神縄滝がある。ここから上流には長者屋敷・乙女渕があり、断崖絶壁を落ちる品字滝などもある。
・東郷湖・淡水湖で山陰八景の一つにも数えられる水郷情緒に満ちた景勝地です。夏期には海水が逆流して一時的に淡・海両魚類の混生状態。湖自体透明度は低いが、魚類が豊富なのと水辺植物が繁茂する水郷風景が多くの観光客を集めてい
島 根 県
・島根県の自然。中国山地が北東から西南の方向にのび、三国山・猿政山・阿佐山・恐羅漢山・冠山・船通山があり、これらの分水嶺から、海岸に向かって山地はしだいに高さ減じ、山間の盆地や谷底平野に集落が発達している。中国山地の北側に山陰の盟主大山から西に三瓶山・鶴降山・青野山などの火山があり、この火山地帯に温泉が多くあります。河川の多くは山間の狭い地帯を流れるため、急流が多く渓谷美に優れている。湖としてはわが国第三位の中海、第六位の宍道湖をはじめ、出雲市に神西湖、人造湖の丸山ダムがあります。海岸線は出入りの多い出雲海岸と出入りの少ない石見海岸とに大別される。港湾を発達させるほどの湾域はなく、丘陵地帯の端に、地方的な小漁港が見られる。気候は、出雲は冬に雨の多く、石見は夏に雨が多い。また、隠岐は、対馬暖流の影響を受けて海洋性の気候を呈している。秋の終わりから冬にかけては陰鬱な天気の日が多い。冬は北西の季節風が強く、春は日本海に発生する低気圧のため南西の季節風が吹き、フエーン現象を起こす。自然景観は、中国の山脈が日本海に迫っているため、島根の海岸線は断崖・磯・砂浜と多彩である。宍道湖の水面に映える夕陽、隠岐国賀海岸の摩天崖、雄大な三瓶山、そして斐伊川上流の鬼の舌震、神戸川の立久恵峡、高津川の匹見峡、江の川の断魚渓などの大自然がつくる四季折々の美しさも、豊かな観光資源として人々をひきつける。
松江市周辺。
西に宍道湖、東に中海を控える県庁所在地都市。中心市街地は宍道湖と中海に挟まれた松江平野の宍道湖畔にあり市街地は宍道湖と中海を結んで流れる大橋川によって、東北に分けられている。市は昭和二六年、国際文化観光都市に指定されている。重要文化財指定の松江城天守閣や小泉八雲旧居・武家屋敷など文化財・古社寺・史跡など多くさらに宍道湖・中海のすぐれた自然景観に加え、新興の松江温泉もあって山陰地方随一の文化観光都市となっている
松江城松江市のシンボル松江城は全国で現存する12天守の内の一つで国宝です唯一の正統天守閣ともいわれていす。千鳥城ともいい、大橋川の北標高二八㍍の亀田山に築くかれた典型的な平山城です。慶長五年関ケ原の戦功により出雲・隠岐二四万石の領主に封じられた堀尾吉春が慶長一二年から四年の歳月を費やして築城富田城から移った
・松江大橋。松江市街のほぼ中央を、宍道湖と中海を結んで東西に貫流する大橋川に架かり、北岸の末次と南岸の白潟を結び、城下町松江の象徴ともなっている橋である、欄干は総御影石製で唐金の擬宝珠がつけられている。現在の橋は昭和一二年の完成。交通量の増加に伴い、東に松江新大橋、西に宍道湖大橋がかけられてさらに昭和五六年新大橋の東にくにびき大橋が完成した、例年八月二四日松江大橋の南詰で行われる源助祭りは江戸時代二代目大橋を架ける際人柱となった源助の霊を祀るものです。
月の輪まつり。毎年八月一四日から一七まで四日間市をあげて盛大に開催される安来市の年内行事で、期間中に山車を先頭に笛、太鼓の音もにぎやかに町内を練り歩き安来節優勝大会などの協賛行事も開催されてにぎわう。
・宍道湖。宍道湖に沈む夕日の美しさは日本一です。時がたつにつれて様々な表情を作り夕景の美しさは絶景と称されており、日本夕陽百選にも選ばれている「水の都松江」の象徴です。
・出雲大社。 福と縁結びの出雲大社
・関の五本松(五本松公園)町内三保関三保開港の後方の丘陵にある。民謡「関の五本松節」にもうたわれる、また海路の目印として古くから親しまれた、国の天然記念物にも指定されていた五本の老松であつたが台風や松くい虫のため惜しくも枯死して記念物の指定も解除された、地元では二代目三代目のマツを選定するとともに平成九年初代五本松の一部を復元したモニュメント施しています。付近一帯は五本松公園になっており約五千本のツツジがあり大山から弓ヶ浜までの雄大な眺望が楽しめます。
・釜浦海岸.島根半島北岸の景勝地、磯釣り・貝採りんどが楽しめるが約八㌔の海岸線はほとんどが険しい断崖と岩礁の連続で、島根半島の山地が直接日本海に沈む地形のため漁村は急斜面によじ登るかたちで階段状に連なっている。また、西端近くの十六島海岸は、沖合にさまざまな奇岩怪石が林立して、山陰でも屈指の海岸美をつくりだしている。この付近でとれるノリは美味で知られる。
・出雲大社。縁結びの神・福の神として知られる大国主命を祀り、伊勢神宮と並び称される大社である。「延喜式」には杵築の大社と記載され、明治四年に現社号に改まるまでは杵築大社の名称が長く用いられた。・稲佐の浜・筆投げ島・日御碕海岸へ足を伸ばしてみましょうよ。
・鬼の舌震。斐伊川支流の馬木川の中流約三㌔に及ぶ渓谷で、国の天然記念物・名勝に指定されている。馬木川の急流が、河底の花崗岩を浸食しつくりだしたV字状の渓谷で、岸辺には大天狗・小天狗などの絶壁が連なり、河底にははんど岩・亀岩・千畳敷き岩・船岩・鳥帽子岩などの風化水食された奇岩怪石が渓谷一面に横たわっている。その岩間を清流が瀑布や深淵をつくって流れ、鬼の舌ぶるの名にふさわしい、独特の怪異ともいえる景観をつくりだしている。
竜頭八重滝。三刀屋川上流に架かる竜頭が滝・八重滝を中心とする滝で町の中心部の西、鳥屋ヶ丸山の東側にかかる滝。古くから中国地方随一の滝で石英安山岩の岩頭四十㍍より落下して男性的な景観を見せる。爆音は周囲の杉の老木にこだまして自然の神秘を感じさせる。雄滝、雌滝があり雄滝の裏には百畳敷に及ぶ天然の洞窟があり「裏滝の眺めが楽しめます。名馬「池月」はここの産と伝え、その蹄の跡称するものが残っている。
・表匹見峡・匹見川の中流、広瀬の新田から上流かけての約一㌔は前匹見峡ともいい、京都の嵐山によく似た「嵐山」や基盤・天狗岩・鬼のカマドなどの巨岩・巨石がつづく、またアユの名所として知られ、また。渓流が尽きるあたりの匹見峡キャンプ場は水にも恵まれ格好のキャンプ地となっている。裏匹見峡、奥匹見峡ものぞいてみましょう。
・隠岐の島。島根半島の北東約四〇~八〇㌔の日本海上に浮かぶ。一八〇余の無人の小島を含む群島の総称である。はるか沖合の竹島を別にすれば隠岐はおもに知夫里島・西の島・中の島の島前と島後に分けられる。群島のほとんどの海岸部が、大山隠岐国立公園に属し、ことに国賀海岸や知部夫赤壁をはじめとする豪壮雄大断崖はわが国第一級の規模を持つ雄大な景観である。自然景観の雄大さに加えて、流人の島隠岐には後鳥羽上皇、後醍醐天皇をはじめ流入たちの多くの史跡が残されている。また、風俗、郷土芸能に注目すべきものが多く、現在では山陰地方の代表的な観光地となっている。(郷土資料事典より)
・隠岐知夫赤壁。知夫里島の西海岸、北は帯ヶ埼から南は立ヶ埼にいたる延長約一㌔、高さ五〇~二〇〇㍍に及ぶ租面安産岩質玄武岩の断層崖である。崖下には隆起によってできた、二段の波食海壇があり、壇面には美しい波食甌穴や、男池・女池と呼ばれる波食溝がある。国の名勝・天然記念物に指定されている。
・隠岐国賀海岸。西の島の北西部海岸、大字美田字大床から大字浦郷赤尾にいたる延長約一三㌔にわたる海岸で、粗面玄武岩の絶壁が、会食によって洞窟・岩礁など、さまざまな変化をみせながら延々とつづき、隠岐の代表的な景観となっている。景観の中心魔天崖は垂直にそそり立つ高さ二六七㍍の大断崖。通天橋は自然がつくりだしたアーチ状の岩架橋でそれぞれに雄大な自然の造形美を見せている。海食洞の典型とされる明暗の岩屋は延長二〇〇㍍に及ぶ海のトンネルである。北端には荒々しく削り取ったような岩肌はささくれ立って見え異様な迫力に満ちている。このほか、亀島、鉄棒岩・仏岩・大神立岩・八橋二六穴などと名付けられた景観があり、さらに大小五〇以上の洞穴が点々と口を開けている、景観にいっそうの変化をつけている。国の名勝・天然記念物に指定されている。
・隠岐海苔田の鼻。島後の北東端近い中村港の東に突き出た岬で、東西は直立した断崖、岬上にはマツ林をいただき先端には琴島を控えて優れた景観を持っており名勝・天然記念物に指定されている。・隠岐白島海岸とも名勝・天然記念物に指定されている
岡山県。県の北部を東西に走る中国山地には一二〇〇㍍級の山々が峰を連ね、その南に吉備高原、岡山平野が広がる。分水嶺に源を発し、山並みを縫うように流れる川沿いは、渓谷や滝、鍾乳洞なども数多く古墳や文化遺跡の宝庫となっている。また地中海のもたとえられる瀬戸内海沿岸では、降り注ぐ陽光と色とりどりの小島群が優雅な姿をみせ、四季折々の景観は人々を魅了し続けている。見どころとして蒜山高原・奥津峡・瀬戸大橋・豪渓・真鍋島の水仙・井倉洞・神庭の爆・塩飽諸島・鷲羽山などと多くの見どころがあります。祭りも何百年も続く伝統の祭りや郷土色豊かな祭りが多く、温泉郷・美作三湯をはじめとする静かな湯の里が散在する。
・岡山市・昭和三九年一月、岡山市と東に隣接する西大寺市が新産業都市の指定を受けたのを契機に両市の合体問題が論議を上がり始め、同年四四年二月に懸案の編入が実現、さらに同四六年には、一宮・津田家・高松・吉備・妹尾・足守・上道・の七町と福田・興除の二村を同五〇年には藤田村と近隣の町村を編入して人口五〇万人を超える新岡山市が誕生する。昭和二〇六月の大空襲で市街地の大部分を焼かれたが、戦後の復興も目覚ましく昭和三七年に開催された第一七回国民体育大会を期に都市の整備も進み中心市街地は面目を一新した
・岡山城(烏城)旭川河口の西岸にある岡山藩池田氏歴代の居城で、天守閣の下見坂が黒塗りであることから、烏城の別称がある。現在の天主閣は、不明門・廊下門・雁木門土塀とともに昭和四十年(1965)に再建されたもので、石垣・堀などとともに、西国の雄藩にふさわしい城郭の威容を見せている。平成九年の築城四百年を機にシャチホコや軒瓦を金泊張りにしてかっての「金烏城」を再現。内部も岡山城の歴史を学べる体感アムューズメント施設になった、なお城跡は、現在烏城公園として整備されている。
・高 梁。”つわものどもが 夢の跡” 備中高梁、みどり濃い山間の盆地に広がる城下町長い歴史と文化の香り漂う高梁、レトロタウン高梁へ。高梁市は備中神楽の起源となった荒神神楽発祥の地、国指定重要無形民俗文化財
・頼久寺庭園(鶴亀の庭)足利尊氏が安国寺として建立した禅寺、国の名勝に指定される庭園(小堀遠州作・蓬莱式枯山水の庭園)
・倉敷市は民芸の町で、西下する山陽本線の特急・急行の停車駅倉敷で下車するともうそこにはゆかしい雰囲気の漂っているのが感じられる。江戸時代には幕府直轄地として発展したこの街には今でも関東御蔵米を収めた白壁の土蔵がみられる。これらの家並みが街全体にしっとりとした落ち着きを与えている。最南端の鷲羽山は瀬戸内の展望台、西の玉島湾は内海を代表する良湖である、町の中央にある大原美術館はコレクションの豊富さで有名です。
・大原美術館。昭和5年大原孫三郎が設立・私立美術館としては日本初です。西洋の美術のコレクションとしては、質・量ともにわが国最高とされている美術館で、倉敷紡績の創立者大原孫三郎氏によって昭和五年に開設されたここにあるコレクションは、大正時代、大原氏が洋画家児島虎太郎にヨーロッパ各地で収集させた美術品で、一七世紀から現代にいたる世界の巨匠たちの作品が見事に一堂に集められ、わが国の美術に大きな貢献をしている。
・岡山後楽園・日本三名園(金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並んで日本三名園・回遊式の大名庭園・国指定特別名勝)
・鷲羽山・瀬戸内海にはり出た児島半島の最南端に位置する山で天空を羽ばたく荒鷲の姿に似ていることから鷲羽山と名づけられたといわれる。山頂は瀬戸内海眺望の絶好地となっており、ここに勝る内海の眺めは、ほかに求めることが出来ないといわれている。眺望に適している場所は五か所あるが、なかでも最もよいのが頂上の鐘秀峰といわれ文豪徳富蘇峰は「内海の秀麗ここに集まると」絶賛した。
・象岩。市内下津井、内海に浮かぶ小島、六口島の西岸にある高さ八㍍の花崗岩が、自然の風化作用や、海水の浸食作用を受けて出来たもので、巨大な像があたかも海の水にたわむれてかのように見える。肌の色や耳の形、鼻をブラントささげて格好などはどこから見ても一頭の巨像としか見えない。天然記念物に指定されている。
・高島。水島灘と燧灘の境界をなす笠島諸島の一島で、神島の南に位置し笠岡港の南の海上にある。展望が四方に開け雄大な内海を一望でき昭和十九年に、国の名勝に指定されている。神武天皇東征のときの滞在地という説もある。
・鬼ヶ嶽・高梁川支流の美山川渓谷で、松林に囲まれた風雅な景観は、国の名勝に指定されている.清水が砕け作り上げた奇跡群が原生林の中に奇形を見せている。
・磐窟渓。成羽川の支流磐窟川の渓谷で、清流が石灰岩と角岩とから成る台地を深くえぐって流れ下り、両岸には高さ百㍍に及ぶ岩壁が波状にはってつづいている一帯には六十落とし・白布の滝・天狗遊び・ハチの巣窟などと名付けられた奇勝・景勝があり、新緑の春、夏の涼風、秋は紅葉と四季それぞれの良さがある昭和六年国の名勝・に指定された。また鍾乳洞、磐窟洞があります
・阿哲峡。またの名をニガサキョウとも呼ばれる景勝地で、約四㌔にわたっている。台地の北部を代表する風光明媚な美しさを誇ってい・井倉洞も訪ねてみようよ
・羅生門。市域のほぼ東端にある巨大な天然橋。地下の大洞窟の天井が陥没した際洞を形成していた岩石の一部が残って出来たもので、高さ四十㍍にも達する天然橋四本からなっている。深い林の中にそびえ立つ天然橋で昭和五年に国の天然記念物に指定されている。またこの近くに簡潔冷泉が(草間の簡潔冷泉)湧きだし同じく天然記念物に指定されている。他に鬼女洞や秘坂鐘乳穴、満奇洞など名勝などがあり訪ねてみる価値ありますよ。
・衆楽園。津山城の北にある庭園で、その規模や優雅さにおいて我が国でも十指の内に数えられる庭園です。この庭園は明暦三年時の城主森長継が京都から庭師を招いて築庭させたもので仙洞御所を模してているといわれ、池泉回遊式の典的な造園法を伝えている。かっては今の三倍にあたる面積を有していたといわれ、園内には余芳閣・清涼軒・風月軒などがあり、往時の面影を伝えている。園内では余芳閣からの眺めが最も美しい。
・津山城跡(鶴山公園)。市街地の中央にある城跡公園で、広大な敷地にはかって美作一国を治めた津山城の巨大な石組が残っている。美作国の領主森忠政が(森蘭丸の弟)慶長九年から一三年の歳月を費やして築城した平山城である。九五年間にわたって津山城は森氏の居城となった。その後元禄一一年松平氏が入城し、明治にいたった。五層の天守閣は明治の初めに取り壊されたが、江戸時代の築城形式を完全に残した城跡として、国の史跡に指定されている。この城跡公園は花の名所としても知られ春は桜とツツジや藤、秋は紅葉が美しいとりわけサクラはその数五千株におよび、天守閣のあった堅固な城塁を中心に、いっせいに咲きそろう様はまさに花の海ともいうべき壮観さで、市内外の花見客を集めている。全国桜百選にも選ばれている。
・広島県。」中国地方中南部に位置する県で、古い歴史をもつ広島県には貴重な価値ある資源・文化財が少なくない、林芙美子がその美しさを歌い上げた尾道市の千光寺公園、頼山陽を育んだ竹原市の照蓮寺、毛利元就が中国一円に威を振るったころの居城郡山城跡などがあり、ことに千光寺公園には、尾道にゆかりの文人墨客の詩歌文章を刻み込んだ碑がたちならび、「文学のこみち」として、文学愛好家に親しまれている。、これらの観光資源をさらに興味深いものにしている風俗や伝説も数多く、とくに、中国山中の花笠踊りやはやし田、、鞆の浦の鯛網などの民俗や、音頭の瀬戸にまつわる平清盛の豪快な伝説は有名である。また県内各地には、唐・宋・元などの時代の工芸品をはじめ、天平期から江戸時代にいたるまで、、幾多の特色ある文化財が保たれている。一方県内の各地には、三十数か所もの温泉があり、国民保養温泉地の指定を受けた湯来温泉郷、帝釈峡深勝の足場矢野温泉、近代的施設と磯釣りの大久野島温泉など、強い個性をもつものが多い。このように多彩な広島県は昔から中国地方の要地として水陸の交通網が発達し、山陰・九州・四国各地への交通の要地として重要な役割を果たしている。鉄道は新幹線・山陽本線が東西に走って京阪神と九州を結び、これらを基盤に呉・芸備・福塩・可部・三江・木次の各線が県内にのびている。
県の自然景観。中国山脈の山並みが北部を東西に走り、南部には瀬戸内海のふところに包まれたように、島々が点在し、強羅漢山、深入山の高峰がそびえ、渓谷美が彩る三段峡を中心とする西中国山地国定公園が県境の左右に配されている。瀬戸内海国立公園は日本三景の一つに、宮島をはじめとする多島の織りなす景観が雄大そのもの、沿岸部に開けた広島、呉、尾道など諸都市には歴史と文化豊かな街並みが残り、風情をそえている。祭りは、古代から安芸、備後両国として栄えた広島は、伝説と民話が多く、歴史や風土に基づく神事・祭事が多彩である。各地に神楽・獅子舞が伝承され、豊作を祈り、祝う花田植えやはやし田などの祭りが盛大に行われる。
・広島市・県の南西部に位置する県庁所在都市で、人類最初の原爆被災地といて、「ノーモア・ヒロシマ」を祈る言葉とともに国際的に名を知られている。中国山地に源を発する大田川が市の中央部を南流し、河口近くでは六つの川に分かれて広島湾に注いでいる。大小無数の橋梁によって連絡されている。市の歴史は古く中国地方きっての城下町として発展した。昭和二十年八月六日米軍の原子爆弾投下によって一瞬のうちに市街地の大部分が破壊され、犠牲者は二十万人を超えた。しかし戦後急ピッチで再建が進められ、自動車・造船などの重工業を発展の基盤として、また昭和二十四年の「広島平和記念都市建設法」によって公共施設の整備が進められ中国地方随一の近代都市として復活した。原爆によって市街地を破壊されただけに歴史や伝統をもつ名所は失われたが、広島城・縮景園・不動院・頼山陽旧居城などが復元され、また平和記念公園・平和記念資料館・平和大橋・世界平和記念聖堂など平和都市を象徴するような、新しい名所が多い、その存続を巡って話題をまいた原爆ドームは全国からの基金によって、補修工事が行われ永久に保存されることになった、また世界遺産にも登録された。
・広島城跡。市街の中央北部に残る平城。安芸国吉田の郡山城主毛利輝元の築城で、今も本丸を囲む石塁やりを残しており、一帯が国の史跡に指定されている。昭和二十年、原爆によりすべてを失われたが同三十三年には鉄筋コンクリート造りで五層の天守閣が再建された、内部は資料館となっていて、広島城のなり立ちや、城下町の暮らしと文化などを紹介する展示、武具など美術品もある。近年平櫓、表御門、御門橋なども復元された。
・縮景園。広島市中区。旧藩主浅野家の別邸の庭園で、元和六年浅野氏初代長晟が上田宗吾に命じて作庭させたもので、山川の景、京洛の態、深山の致をここに縮景したといわれ、この名がある。かっては泉邸・お泉水などとも呼ばれていた。以来、歴代城主の手によって修復が加えられたが、とくに七代吉長は庭内の島や橋、山などに中国風の名をつけ、九代は庭師清水七郎右衛門に大改修させ、景観を整えた。江戸時代の大名庭の面影を偲ばせる。
・平和記念公園。市内中島町。市の中心街に近い中之島の北端部。平和大通りを底辺に元安治川・本川に挟まれた三角地一帯で、爆心地といわれるこの辺りに国際平和文化都市として復興した広島市が恒久平和を祈願して造成した都市公園。園内には、桜を主体に多種類の樹木と四季の草加が彩り、その間を遊歩道が縫っている。平和記念館や平和記念資料館、原爆慰霊碑・祈りの泉・平和の灯・平和の鐘・原爆の子の像、嵐の中の母子像などがある。
・南原峡。市北東部、太田川上流の深い峡谷一帯を総称し、南原県立自然公園の中核をなす景勝地で渓谷の様相は三段峡に酷似しており、奇岩・絶壁・深淵・早瀬・飛瀑などが延長約五㌔にわたって連続している。
・厳島神社・平成八年に世界文化遺産に登録された、弥山を中心にして深い緑に覆われた山容を背景に、海中に建つ鮮やかな朱塗りの社殿群じゃ独特の壮麗な景観をつくり出している。その美景は、松島(宮城県)・天橋立・(京都府)とともに日本三景の一つとされ、わが国を代表する観光地となっている。本社本殿・幣殿・拝殿など一七棟と大鳥居・五重塔・多宝塔三基からなる建物のうち、六棟が国宝、一一棟三基が重要文化財に指定されている。千畳閣・五重塔・宝蔵・宝物館・多宝塔等々.紅葉谷公園にも立ち寄ろう。
・石ケ谷渓谷。湯来町役場のある大橋から水内川沿いを西へ約二㌔左岸に注ぐ一支沢の上流部渓谷をいう、県の名勝に指定されている。小さい滝も多くある。
・吉水園。加計の街並み北側の丘陵地にある日本式庭園。三三0平方㍍ほどの池を中心に老樹し、薬師堂や金屋子神社、あずまや“吉水亭”などがある。庭は天明元年芸北きって鉄山経営者隅屋八右衛門の造園になるもので、同二年森脇弥右エ門が吉水亭を建てられた。池を見下すやまぎわに建っている吉水亭は数寄屋風、茅葺の平屋建て、内部は四畳と二畳の二間に分れ、瀟洒な高欄をめぐらしており、この庭の眺望が最も良いとされている。昭和二十六年七月、国の名勝に指定されている。
・三段峡。戸河内町。太田川上流の田代川と柴木川の渓谷一帯を総称し、延長約一六㌔、渓谷北方の八幡高原にいたっている。石英斑岩・花崗岩の石盤が深く浸食され、高度差四百㍍の間に大岩壁や、深淵・洞窟・滝などを形成している。なかでも黒淵・猿飛・二段滝・三段滝・三ッ滝は三段峡の五大景観としても有名です。
①黒淵―三段峡の入り口から徒歩約四十分のところにある深淵で、長さ一一〇㍍余、幅約六〇㍍、両側を二〇~一〇〇㍍の断崖に挟まれ、その名の示すとおり黒々とした水をたたえて静まりかえっている。渡船で船上から観光できる
②猿飛は三段峡のほぼ中央にある峡門で幅約五㍍、長さ八十五㍍の水路は両側から覆いかさぶるような断崖に挟まれ、峡中でも最も神秘的な雰囲気をかもしだしている。水深は七~八㍍前後で、ここに入るためには船を利用しなければならない。猿飛の名は、峡門の上部が狭まり、猿が飛躍して往来する様子から生じた。
③三段滝は高さ約三十㍍、三段に分かれ絶壁に囲まれて水煙を巻きあげる光景は壮観です最奥部に竜門と三ッ滝が続いている。竜門は、そそり立つ両岸が鮮やかな節理を見せて傾き、幅約五㍍の峡門をつくっている、さらにその奥にも大小の滝が落ちている。
④三つ滝は川が大きく角度を変える付近かかっており、岩盤の関係で一つの滝が三つに折れ曲がって滝壺に落ち込んでいる。
この他三段峡には数えきれないほどの景勝地があるが、それにもまして価値のあるのは峡谷一帯を埋める多彩な原生林で、渓谷部にはウラジロガシなどの暖帯制常緑広葉樹、などが発達している。特別・名勝に指定されている
福山・尾道・因島。瀬戸内海に面した街は、万葉の昔から内海航路の要衡を占める港町として栄え、明治以降いっそうの活発な開発が進められ、こうした産業の発展のもとに、風光明媚な海洋の自然美を描きさまざまな文化遺産を残している。臨海工業都市を形成している福山市には、鞆の浦をはじめ明王院・対潮楼・仙酔島などの名所旧跡がある。春に鞆の浦沖で行われる鯛網は、雄大な行事として知られている。中国地方有数の産業観光都市である尾道市は、本来は港によって開けただけに長いれきしを持っており、各時代の特徴を備えた文化財が保存されている。志賀直哉・林芙美子など多くの文人によって街の美しさを褒めたたえられている。尾道市の海上二三㌔にある因島は一島一市を形成する全国唯一の島で村上水軍の名をとどろかせた歴史をもっている
(ふるさと文化遺産・郷土資料事典より)
福山城跡・福山市丸ノ内。福山駅のすぐ北側に残る平山城の遺構。もと野上村と称し、広島城城主福島正則の領地とされていた。十万石、外郭はほとんど跡形なく壊されてしまっている。しかし、天守台・本丸・二の丸はよく旧状をとどめ、特に地階を有する天守台は、江戸初期のそれと好例とされ、一帯が国の史跡に指定されている。楼閣も、昭和二十年の戦災で伏見櫓・筋鉄御門を除いて焼失したが同四一年天守閣・月見櫓・御湯殿などが復元された、天守閣は鉄筋コンクリート造り、五層、内部は市立博物館で歴代藩主の遺品や資料のほか考古資料などが展示されている。場内は桜も多く秋には菊花展なども開催されている。
・ホロコースト記念館。市内御幸町。第二次大戦中のヨーロッパで、ユダヤ人であるという理由だけで六百万人の生命が奪われた歴史事実は「ホロコースト」と呼ばれている。ナイスドイツによるこの大虐殺で、犠牲になった子供たちは百五十万人にものぼるが、記念館はこの歴史の現実を学ぶための場として設けられている。戦後五十年にあたる平成七年に開館した。収蔵されている資料にはホロコーストに関する書籍・児童書・絵画も数多く、各国で出版されたアンネの日記もある。
・鞆の浦。福山市街南西郊外の水呑から阿伏兎岬にいたる沼隅半島東岸の断崖層と、その東側に浮かぶ仙酔島・つつじ島・皇后島・弁天島・玉津島・津軽島などを含めた地域を鞆の浦と呼び、紺碧の海に、アカマツやウバメガシに覆われた島々を配した風景は、瀬戸内海の中でもとりわけ美しく、一帯が「鞆公園」として国の名勝に指定されている。明治以後、陸上交通の発達によってやや衰えたが、観光の町として転進が図られている、毎年四月下旬から五月下旬にかけて周辺の海域で行われる鯛網は名物になっており、海岸沿いの家並みを広げる鞆の街も、昔ながらの情緒をよく残している。街の背後にある後山は、鞆の浦の全景を眺める展望台となっている。
・因島水軍城。南北朝期から室町・戦国期にかけて島々や沿海の要地に砦を築き、勢力を誇示した村上水軍。全国唯一の水軍城は、歴史家・奈良本辰也氏の監修で再現され、昭和五十八年に開館した。本丸は村上水軍の残した武具・遺品・古文書などの歴史資料を展示している水軍資料館で、二ノ丸が展示室になっている隅櫓は展望台となっている。
・矢野の岩海。国指定の天然記念物で標高四五〇㍍の渓谷底にある。直径二~六㍍の巨大岩礫が累々と重なって谷底を埋め、その厚さは七㍍以上、延長七〇㍍余に及んでいる。谷頭・稜線付近の基盤をなす閃雲花崗岩が、古い時代に崩壊・転落し、風化の進展により礫化して土壌が洗い流され、岩礫の残留累積したもの、と推定される。多くのコウモリが生息していることから俗に「コウモリ岩」とも呼ばれている。新緑の春、紅葉の秋ともそれぞれよい
・帝釈峡。県北東部に発達している石灰岩台地が帝釈川の浸食作用によって鋭くえぐられて出来た延長約一五㌔の渓谷で周辺の台地上にはドリーネやウバーレが数多く存在する。比婆道後帝釈国定公園を代表する景勝地の一つとされている。見どころとして
① 唐門―高さ約五十㍍の大岩盤中腹に開いた洞窟、別名を“鬼の木戸”ともいう。
② 白雲洞―帝釈峡に散在する三〇余りの石灰洞のうち下帝釈峡の天川洞とともに最大級のもの、奥行きは約二〇〇㍍、最大高さ二〇メートルで随所に石筍や石柱が発達し、変化に富んでいる、照明装置が完備されているので気軽に深勝出来る。
③ 雄橋―別名“神の橋”とも呼ばれ、渓谷中随一の奇勝とされている。石灰岩層の下部が河水によって浸食されカマボコ形にくりぬかれている。長さ約七十㍍高さ四十㍍で巨大な橋が中空を結ぶ姿は実に圧巻です。
④ 断魚渓―渓谷中随一の急流で魚も遡行出来ないといわれ、この名がある。流水が砕けて白いしぶきをあげている。
⑤ 雌橋―雄橋と同じような天然橋だが規模はやや小さい。神龍湖の満水時には水没する。
⑥ 神龍湖―大正一三年、帝釈川ダムの完成によって出来た人造湖、両岸には生い茂る樹林に覆われた岩壁がせまり、湖面に新緑が映える春、紅葉の秋とそれぞれ美しい。
山口県。本州の最西端に位置する山口県は、南に温暖な瀬戸内海、西は荒涼とした響灘、北は風浪の高い日本海と、それぞれ趣の異なる海に三面を囲まれている。県内には、瀬戸内海国立公園をはじめ、秋吉台国定公園・北長門海岸公園・西中国山地国定公園など、それぞれ変化に富んだ自然公園がある。特に大いなる自然のダイナミックを見せてくれるのが、世界でも有数の規模を持つ秋吉洞・景清穴などの大鍾乳洞群を擁する秋吉台国定公園。日本列島の形成に関する学術上の重要性とともに、その広大なカルスト台地と地下地形は、特異な観光資源として毎年多くの観光客を集めている。県の観光の特色は、自然の美しさと、長い歴史と伝統に培われた文化遺産の調和にあるといわれる。山口・萩・岩国・防府・下関などの諸都市には歴史の年輪が刻み込まれた文化遺産が多く、錦帯橋・瑠璃光寺五重塔・常栄寺雪船庭・防府天満宮・松下村塾などが特に有名です。
山口県の自然景観。中国山地の支脈が中央部を形成し、瀬戸内海・日本海両地域の分水嶺を形成している山口県。高峻な山岳はないが、随所に広大な高原地帯が分布している。なかでもカルスト地形で有名な秋吉台は観光客を魅了してやまない。その地表下には秋芳洞をはじめ奇怪な鍾乳洞が散在する。日本海側では、勇壮な景観を見せる青海島、そして阿武川の上流に秘境長門峡がある。温暖な瀬戸内海の自然美も詩情にあふれている。
① 地下資源が豊富な中国山地の山間部には、ところどころに自然に融和したような集落が見受けれれる。
② 周防灘、瀬戸内海最大の灘で、昔から漁業が盛んであったが近年は重化学工業の発展が目立つ。重要な水運交通のルートであることは変わらない。
③ 秋芳洞、何億年という時の経験が生んだ、世界でも有名な鍾乳洞・秋吉台。その規模といい美観といい一度は見てみたい観光スポットである。
④ 秋吉台、秋芳町と美東町にまたがる石灰岩高原で、日本最大のカルスト景観地として人気を集めている。若草が映える中、奇怪な石灰が無数に露出し、あたかも芸術家がディレクトしたような野外彫刻の趣がある。((景清穴・大正洞おも訪ねてみよう)
⑤ 長門峡、阿武川上流、石英斑岩が浸食を受けてできた深谷。屏風のような絶壁が迫ったり青く澄んだ淵があったり、四季折々の景観は格別のもので、特に紅葉時はひときわ鮮やかである。
⑥ 青海島、長門市仙崎の先端からわずか二百メ㍍の沖合に浮かぶ島。南部はわずかに平坦地があって、通や大日比などの小集落があるが、北部は日本海の荒波の浸食により雄大な景観が展開する。
⑦ ホルンフェルス大断層、須佐湾の北東、黒と淡灰色の層が交互に規則正しく積み重なる高さ約五十㍍の断層。上面は約二十度も海側に迫り出している。
祭り。・貴船祭り(徳山市)・しものせき海峡祭り・先帝祭り(下関市)・壇ノ浦源平船合戦・柳井祭り((柳井市)・通(かよい)の夏まつり。などが行われている。
・毛利邸庭園・防府駅の北東、なだらかな多々良山の南麓にある。長州藩主毛利公の邸で、敷地約五万三千平方㍍の広壮な邸宅と庭園がある。旧藩主井上馨らの奔走により大正五年完成したものです。江戸時代の御殿造りを模し、明治・大正の粋を結集した建物です。庭は各種様式を取り入れ、地形に応じて築庭されており、巧みな調和を見せている。二五十種を越える樹木が、四季折りおりの興趣をそそっている。特に約三百本の桜が咲き誇る四月初旬、二千本のツツジが咲きそろう五月上旬は、花見で訪れる人も多い平成八年国の名勝に指定されている。
・下関市。県の南西端に位置する下関市は、いうまでもなく九州・韓国への玄関口である。古くは神功皇后の外征基地。平家滅亡の哀話をとどめる壇ノ浦、幕末の四国艦隊を相手に戦った馬関戦争と、歴史の大きな結節点には必ず登場してくるところである。(ふるさと文化遺産郷土資料事典より)
・大吼谷蝙蝠洞。日本海の激しい波の浸食によってできた海蝕洞で、響灘にのぞむ花崗岩の断崖にある。人口の幅約四㍍、高さ七㍍、奥行は八十㍍あり、洞内に入るにつれ、高さも幅も広がっている。西風の強い日は、大波が洞内に押し寄せ、高い響きを発するところからこの名がついた。別名“海の秋芳洞”とも呼ばれ昭和三年に国の名勝・天然記念物に指定さた。
・狗留孫山。中国山地の西端をなす豊浦山地北部の標高六一六㍍の山で、御嶽と呼ばれる。古くから霊山として知られている山です。八合目までは、スギ・檜・シイ・カシなどの老樹が茂り、春の新緑、秋の紅葉期は特に見事である。山中は渓流が多く、老樹の緑や紅葉が山中の景観に一層の彩りを添えている。山頂からの絶景は雄大で、東は防長の山並み、北は日本海、西は響灘、南は瀬戸内海を隔てて豊後の国東半島まで一望できる。昭和一五年に国の名勝に指定されている。
・石柱渓・豊田町今出、吉田川の支流、笹川のさらに支流のドウドウ川の、延長2㌔の渓流。石英斑岩からなる深い淵と、小さな滝が連続して奇勝をつくり出している。渓流の両岸と河床は大部分5角形で、直径30~50㌢柱状節理を示す石柱となっており、石柱渓の名もこれに基づいている。川床には甌穴が多く、また滝も四八滝と呼ばれるほど多い。大正一五年に国の名勝・天然記念物に指定されている。
萩市。約二六〇年の間、萩藩三六万石の城下町であった萩市hわが国でも有数の史跡と文化をもつ市である。萩城跡をはじめ、由緒ある武家屋敷が独特の趣をかもしだす城下町、さらに明治維新の原動力ともなった松下村塾を筆頭に、維新関係の史跡が目を引く。また「一楽二萩三唐津」とも呼ばれるように、わが国屈指の焼き物の町としてもよく知られている。
・青海島。仙崎市街北の日本海上に、深川湾と仙崎湾を隔てて浮かぶ島で、北長門海岸国定公園を代表する景勝地。東北八・五㌔、南北は三・五㌔ほどで、中央部が深くくびれている。面積は一四・五㌔で、青海大橋が本土とおつないでいる。島の北岸は日本海の波浪に浸食されて、黄金洞・石門・十六羅漢・島見門・高崖・屏風岩などの、断崖・絶壁・洞門・岩礁の豪壮な奇観が連続している。南部は傾斜が比較的ゆるやかなで、青海湖をだく砂州の波の橋立や、大泊・大日比・静ヶ浦などの静かな入江がある。また島内には国の史跡指定のクジラ墓、史跡・天然記念物指定の夏ミカン原樹、などがある。
・竜宮の潮吹。油谷町の東端の海岸にある潮吹き岩のことで、そのスケールノ大きさと美しさから、命名された。潮吹き穴とは、岩壁に押し寄せる日本海の荒波が、岩礁の内部の波にえぐられて出来た洞穴のこと。縦約一㍍、横八㌢の細ながい穴から中天高く噴出する。竜宮の潮吹き穴の場合は、高さ三〇㍍にも達することがあり、サイレンのうなりにも似た甲高い音をあげる。
・俵島。油谷町内、油谷半島の突端近くの海上に浮かぶ小島。全島玄武岩からなり、周囲約九百㍍、高さは三十㍍に達している。波蝕と風蝕によって、微妙な石の節理が規則正しく並び、まるで米俵を縦に天高く積み上げたように見えることから俵島と呼ばれている。探勝には海上からがよく、積み上げられた俵の山がまさに崩れ落ちるような緊迫した風景を堪能できる。昭和二年国の名勝・天然記念物に指定された。
・錦帯橋。先人の夢と英知が創りなした未来への架け橋。錦川の清流に架けられたアーチ型五連の木橋。日光の神橋(栃木県)、大月の猿橋(山梨県)とともに日本三奇橋の一つに数えられて名高い。この橋は岩国三代藩主吉川広嘉が、錦川の出水のたびに橋梁が流失するので、延宝元年に当時最新の築橋術を用いて架橋したもので、現在の橋は昭和二八年一月一億二千万円の巨費を投じて再建されたもので、岩国市のシンボルと広く知られる。大正一一年に国の名勝に指定されている
・萩・津和野。36万石の城下町で栄えた萩・武家屋敷や町家、土掘やなまこ壁が続く津和野景観は年間を通じて素晴らしく、多くの観光客が訪れます。
・SLやまぐち号。「貴婦人」C57形1号機、展望車風・欧風・昭和風・明治風・大正風の5両編成
・萩・時代まつり。萩市古来の奉納行列「萩大名行列」が市内を練り歩く、秋の一大イベント。総勢200名を超える行列が城下町を中心に練り歩きます。
・萩 焼 (はぎやき)山口県萩市一帯で焼かれる陶器。「一楽二萩三唐津」
・湯の原ダム。木屋川にある貯水ダム。下関市市民の水源であるとともに、工業用水としても重要な役割を果たしている。また景勝地としても知られ、中山瀞と名付けられている。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉が美しく、訪れる行楽客も多い
・寂地峡五竜の滝。錦町宇佐、宇佐川上流の約三・五㌔にわたる犬房峡と、この川の支流にある約一㌔の滝ケ岳峡ノ二つを総称して寂地峡という。奇岩怪石や淵によって構成される寂地峡は景勝地として有名だが、そこを連続して落ちる五竜が環境庁により名滝百選に選ばれている。渓流ではヤマメが釣れ、カジカの声を楽しむことが出来る。
♨ 訪ねて見たい温泉 (中国編)
鳥取・島根・岡山・広島・山口
鳥 取 県
鳥取県の温泉地数15源泉数368宿泊利用人数1,307千人強(環境省・2014年3月末)その中でも皆生温泉・三朝温泉の宿泊客が突出している。国民保養温泉地は鹿野・吉岡、関金、岩井の3地区が指定されている。二十世紀ナシやラッキョが多くの人に好まれている
・皆生温泉。米子平野の一角を占め、弓ヶ浜の皆生海岸に面した鳥取県最大の温泉で、近年は年 間50万人前後の利用客で賑わう。最初に発見したのは、浜辺で漁をしていた地元の漁師が、泡を吹き だしているのを偶然見つけたそうで、海中より湧出る湯は、山陰屈指の名湯と語り続けられています。 温泉は42℃以上の温泉が毎分5,700ℓと湯量も豊富で源泉資源に恵まれています。
・三朝温泉 (みささ温泉)鳥取県東伯郡三朝町にある温泉。八白五十年以上前の昔のこと、源義朝の家臣大久保左馬之祐が、年老いて白い狼を、弓で射ようとしますが、思いとどまり見逃してあげると、その夜、夢に妙見大菩薩が現れ白い狼を助けたお礼に温泉の場所を教えてくれた、以後救いのお湯として、村人達の病を助けたと伝わります。楠の古木の根元から湧く温泉は、今も現役。株湯と呼ばれ公衆浴場になっている。この株湯のそばには、飲泉場が設置され、湯の量は豊富で多くの人が並んでいる。温泉街の中心に三朝橋は昭和九年に造られた青御影石造りの風流な橋。三朝大橋の名で知られている。そのたもとには三朝温泉名物「河原風呂」と足湯「河原の湯」がある。三朝橋を中心に、三徳川の両岸に三十数軒もの温泉宿が軒を連ね、山陰でも最も情緒あふれる温泉街が形成されている。お湯も、世界有数のラジウム含有量を誇る山陰屈指の名湯である。(三朝温泉観光協会サイトより)
・岩井温泉。(いわい温泉)鳥取県岩美郡岩美町にある温泉 1300年の歴史ある、湯を叩き頭にかけ唄う「湯かむり唄」が残る温泉。中国山地、蒲生川沿いに旅館が建ち温泉街を形成し、穏やかで素朴な情緒が漂い1973年(昭和48年)国民保養温泉地に指定される。開湯は859年(貞観元年)とされている。伝承では清和天皇時、皮膚病を患った若者が岩井で出会った巫女の杖で温泉を見出しその湯につけて病が治癒したとの話や、薬師如来が温泉を湧出させたとの伝説がある。・「湯かむり」と言うのは、頭に手ぬぐいを乗せ柄杓で湯をかむるという珍しい風習が江戸時代から伝わり、これに欠かせないのが「湯かむり唄」。「岩井八景づくし」「芸題づくし」「忠臣蔵づくし」などの形式があり、いづれも数え歌で長いものでは100番まであるとか。長く浸かり効用を享受できる心和ますものでしょうね。江戸時代に、近くの荒金・銀山などからの湯冶客で賑わい、今もその面影が町並みに残ります。
・関金温泉.(せきがね温泉)鳥取市倉吉市にある温泉.中国地方の蒜山の麓に位置し、大山も眺められる自然豊かな温泉地。泉質は「単純弱放射能泉」。日本有数のラジウム温泉で三朝温泉についで日本国内第2位ラジウムが発する微量放射能線効果で身体の免疫力や自然治癒力を高める「ホルミシス効果」が有ります。疲労回復・神経痛・筋肉痛・痛風とうに良いとされている。開湯伝説には諸説ある。関金温泉は無色透明無味無臭のお湯で、きれいなことで、他に類を見ないところから「伯耆民談紀」では、「銀湯なり」と記され、以来「白銀(しろがね)の湯」と呼ばれてい
・玉造温泉 (たまつくり温泉)鳥取県松江市玉湯町玉造にある温泉。奈良時代初期にひらかれた、日本最古の歴史をもつ玉造温泉は、大国主命と共に国造りをした少彦名命が発見、神代の頃からあったと言い伝えられている。平安時代には「玉造」の名は京の都まで届き、評判になっていたと清少納言は「枕草子」で触れている。神の湯として知られ、また江戸時代には松前藩主の静養の地となっており、湯之介と呼ばれる温泉を管理する役職も設けられている。玉造の名の由来は、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていた事に由来すると考えられている。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)によってこの地で造られたと言われている。「一度洗えばお肌もしっとりすべすべ、二度入ればどんな病気や怪我もなおってしまうその効能が効かなかったという話は聞いたことがない。世の人々は「神の湯」と呼んでいるのである。」玉造温泉旅館協同組合サイトより一部抜粋。何度も浸かりに行きましたよね~。
・鹿野・吉岡温泉。鹿野温泉は、戦国大名であった亀井茲矩(かめいこれのり)公の居城である鹿野城下の風情を、今なお、色濃く残している。落ち着いた町屋の風情も各所で見られる。。城跡公園は桜の名所です。吉岡温泉一千年ほど前に薬師如来のお告げで発見されたといわれています。江戸時代には藩主池田氏の湯湯治としてほごされ、現在も独特の風情を醸し出しています。知る人ぞ知る「隠れ家」的な温泉地だ。また「ホタルの里」としても有名で、毎年6月頃、近くの河川周辺を散策すれば源氏ボタルの乱舞に出会うことができる。美人の湯として知られる「鹿野温泉」、閑静な湯として知られる「吉岡温泉」を訪ねてみましょうよ。
・東郷温泉。東郷町松崎.東郷湖の南西岸一帯に湯街が形成されている。明治五年に湖畔をボーリングして開いた温泉地で、湯は元々湖底から自然湧出していたもので、今でも湖面に湧き上がる湯気が、この水郷温泉郷の独特の景観になっている。四季を通じて釣りの好適地で、夏の納涼や、中秋の名月をめでるのもよく、これまでに多くの文人墨客に紹介されている。
・鳥取温泉。市内永楽温泉地。明治三0年ごろ発見された温泉、10数軒の温泉旅館があり、市中に湧く温泉として親しまれている。名所・旧跡を訪れる足場には便利です。
・浜村温泉。山陰本線を挟んで北を浜村温泉、南を勝見温泉といい、この両方を称して浜村温泉と呼んでいる。勝見温泉の開湯は文亀元年(一五〇一)といわれ、昔は鷺の湯と呼ばれていた。一方、山陰本線を隔てて北の浜村温泉は、明治になって開発されたもので、なだらかなスロープを描く砂丘の一角に湧く温泉です。湯量も豊富で、温泉プール、露天風呂もあって、湯煙りをあげています。観光地として因幡・但馬・海道八景の一つである魚見台は絶景です。夏は海水浴客でにぎわい、長尾岬では長尾灯台と夏泊の海女の素潜りが見ものです。
島根県・温泉地数44、源泉数254,宿泊利用数1,232千人強、湧出量26千ℓ強
(環境省平成26年3月末)日本海に面して北東から南西方向へ細ながく延びた土地と隠岐諸島からなる県で、中心都市の松江や出雲は宍道湖の近くにあり、国造りや国引きの神話や伝説が多く残されている。松江城は築城当時の天守閣が残されており、、春の桜と一体となり景色は見事です。宿泊施設は前記の如くで多くの宿泊客が訪れています。
・温泉津温泉 (ゆのつ温泉)島根県大田市温泉津町にある温泉港でもある当地は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部として世界遺産に登録されている、開湯は古く1300年の歴史を持ち、説によれば旅の僧が、湯に浸かっている狸を見つけ、縁結びの大国主命が病気のウサギをお湯にいれて、救ったことから始まったといわれている。湯冶場として評判の由緒ある温泉です。薬師湯は地震により湧出したことから「震湯」の別名があり、また従前は「藤乃湯」だったが、その薬効豊かな湯質と温泉の守りとして薬師如来をまつっている事などから、「薬師湯」になった。
・元 湯。発見されてから千三百年の歴史を持つ元湯は、温泉津に永らく湯冶場として評判を作ってきた由緒ある温泉。今もその薬効の高さか、入浴客がたえることがない。
・薬師湯。島根で唯一全国で僅か12箇所しかない、最高評価の「オール5」で認定されている、薬効豊かな天然温泉は、万病に効くと評判。湯冶場の風情色濃く残す温泉街が続く、明治時代にタイムスリップしたようなレトロな渋い町並みである。 (訪ねようよ~)温泉津町観光協会サイトより一部抜粋 。島根県江津市観光協会サイトより一部
・有福温泉。(ありふく温泉)島根県江津市にある温泉。有福温泉は1350年以上も前、聖徳太子の時代、インドの行脚僧法道上人が山奥で見つけた温泉でした。古来より名湯が湧く福有の里、有福温泉の名前はここからつけられたといわれている。無色透明な単純アルカリ泉は透き通るような美しい白肌を作る「美人の湯」として有名です。有福温泉には3つの外湯と6つの貸切露天風呂が楽しめる
・外湯・御前湯ーレトロな外壁が特徴、代々の浜田城主、津和野城主,伊能忠敬も逗留した山陰の名門「福の湯」昭和の代で改築した折改称し「御前湯」となった。さつき湯ー木造で家庭的、木の香りが漂う。やよい湯ー地域の人々が愛するちょっとぬるめの湯、貸切露天風呂「恵比寿」「大黒天」「毘沙門天」「弁財天」「寿老人」「福禄寿」など山々を眺めながらゆったりと湯につかりましょうよ。
・鷺の湯温泉。安芸市の南西、飯梨川左岸にある、伝えによると神亀年間、白鷺がこの温泉の湯で足の傷を治したといい、温泉の名もこれに由来している。戦国期、温泉近くの富田城にあって、この地方一円に威をふるった尼子氏全盛のころには、御殿場としてにぎわいを見せていたという。江戸時代の大洪水で泉脈を失ったが、その後、明治四二年になって再掘された。周辺は田園風景の広がるひなびた環境にあり、湯量も豊富で、県内外の人々に親しまれている。平成九年、温泉の一角多彩な入浴施設と長期滞在も可能な宿泊施設も加えた
・三瓶温泉。三瓶山麓の代表的な温泉で、三瓶山南麓に湧く国民保養、もとは志学温泉といった。泉源は、温泉地から約一㌔はなれた日影山から引湯している。以前は静かな湯治向きの温泉であったが、今では三瓶深勝のハイキングスキーの拠点としてにぎわうようになった。温泉地はさして標高が高いわけではないが、眼下に霧の海を望む数少ない温泉の一つです。。霧は五~六月と一〇~十一月の晩秋に最も多く発生し晴れた朝や夕暮れに時に一帯の連峰が雲海の上に浮かび上がるさまは見事です。
・玉造温泉。三方を山で囲まれた静かな温泉郷で、宍道湖に注ぐ玉湯川沿いの両岸に旅館が軒を連ねている。温泉の歴史は古く神代の昔と伝えられている。「出雲風土記」には、“一度すすげば形容端うるはしく、再び浴むれば万病ことごとく除く・・・俗人なずけて神湯といへりと記されている、江戸時代には松平治郷の別荘が設けられ、また、出雲三十三番札所があったため、参拝客の訪れも多かったという。現在も、近くに松江市・出雲大社を控えた地だけに、出雲路観光の拠点として格好の温泉地である。
・松江温泉。宍道湖北岸の埋め立て地にある。昭和三七年、都市計画事業の一環として旅館団地として造られたが、昭和四六年、ボーリングに成功して、地下一二五〇㍍から高温・多量の温泉が湧出て、新興の温泉街となった。温泉街には千鳥公園・お湯かけ地蔵・名産センター・松江名産ホールなどがあり、宍道湖の眺めが素晴らしい。
・湯の川温泉。荘原駅前南の田園から大黒山の山裾にかけて散在するひなびた温泉。かって湯の谷と呼ばれ大国主命の妃が発見したといい、また戦国期の尼子・毛利氏合戦のおりには尼子方の将兵が戦傷を治したという伝えもある古い湯です。松の湯(群馬県)・龍神温泉(和歌山県)とともに三大美容温泉として女性に人気があります。
岡 山 県
・湯原温泉郷。岡山県真庭市湯原温泉・豊栄にある温泉。下湯原温泉・足温泉・真賀温泉・郷緑温泉との5つを総称して「湯原温泉郷」と称し湯郷温泉、奥津温泉とともに美作三湯と呼ばれ、また「諸国露天風呂番付」(野口冬人による)西の横綱にランクされている。湯原温泉は古くから利用されていた特にこの地域では古墳時代よりたたら製鉄の盛んなところで、それに労働か過酷でその療養として温泉が使われていた。歴史的に登場するのは豊臣秀吉の五大家宇喜多秀家の母「おふくの方」の湯冶場として開設したと言う記述からです。湯原温泉には15の源泉がありその総噴出量は全てを合わせ毎分6,000リットル以上と言われ、これが古くより湯原(湯ノ原)と呼ばれる所以です。
砂 湯ー湯原温泉の原風景で昔そのままの天然露天風呂です。川底の砂を吹き上げながらお湯が沸いている事から「砂噴き湯:砂湯」と呼ばれています。
・湯本温泉館ー市営の温泉館。平成12年4月にリニューアル、綺麗になりました、湯原温泉の中央にあります。下湯原温泉、真賀温泉館、足温泉館、などへ立ち寄ってみませんか。
・温泉指南役ー観光・慰安の目的だけでなく、湯原温泉の歴史、湯原温泉の泉質、名物の「砂湯」の入浴指南、旅館では入浴と人間ドックになったプランを実施しこのことが第7回「人に優しい地域の宿づくり賞」厚生労働大臣表彰を受賞。岡山県湯原温泉郷公式ホームページより
・奥津温泉。(おくつ温泉)岡山県苫田郡鏡野町にある温泉。中国山地の山々と吉井川の清流に囲まれた、自然豊かな鏡野町にある奥津温泉江戸時代に開かれ、全国でも湯量が豊富で湯に浸かっていると肌がスベスベになる「美人の湯」でしられています。湯郷温泉、湯原温泉とともに美作三湯と呼ばれている。 大手化粧品メーカーの化粧水に使われている。3月下旬から12月上旬の日祝日には奥津橋たもとの河原(露天風呂)で「足踏み洗濯」が見れる、元々は熊や狼など野生の獣に襲われないように立って見張りながら洗濯をしたのが始まりといわれている。温泉街では湯巡手形を発行している。与謝野晶子・鉄幹夫婦や棟方志功など多くの文人墨客に愛された温泉 。
・井倉温泉・井倉峡にある温泉で、巨岩怪石がおりなす天然の造形美に恵まれ、湯治場としての環境は申し分ない。高梁川でとれるアユをはじめ、季節の川魚料理や、山地特有の珍味も四季折々楽しめる。
・井原温泉。小田川の上流にある鉱泉で天平一二年に有名な行基によって発見されたと伝えられる歴史の古い温泉で都塵に遠くひなびた雰囲気があっていかにも山の湯らしく、静けさを好む湯治客にはうってつけである。
・湯郷温泉。津山市の東南、備前平野をうるおす吉井川支流吉野川の清流に沿った温泉で北には那岐山がそびえている。この温泉は鷺の湯とも呼ばれれるが、これはその昔白鷺化身した文殊菩薩に導かれた叡山の円仁が発見したという伝説に由来している。二十軒を超える旅館があるほか、町営の国民宿舎や美作湯郷簡易保険保養センターなどがあり、阪神方面からの客が多い。
広 島 県
県内には温泉地が63源泉数が349宿泊施設76軒2014年宿泊利用人数889525人(環境省「平成25年度温泉利用状況より」)国民保養温泉地として、中国山地の県中西部に湯来・湯の山・中東部に矢野の2地区が指定されており、それぞれの落ち着いた環境の下に諸施設が整備されている。
・湯来温泉。冠山の東麓を流れる打尾谷川沿いの温泉で、約千二百年前の大同年間(806~
10)に発見されたと伝えられる県内最古の温泉で慶長年間(1596~1615)には芸陽地方唯一の温泉地として発展し、湯治客でにぎわったとも伝えられている。昭和三十年、国民保養温泉地に指定されてからさらに、有名になった。旅館組合管理の公衆露天風呂もあり、旅館には内湯の露天風呂を設置するなど施設も整備されている国民宿舎湯来ロッジもある
・湯の山温泉。町の北東部、水内川左岸の山麓にある。湯は、富士山が大爆発した大同二年に発見と伝えられて泉温約二五度Cの放射能冷鉱泉。さかんに湧出たので寛永元年(1748)には藩主浅野吉長の知るところとなり翌二年には藩儒堀が来遊して「霊泉記」を著し、湯の効能を広く一般に紹介した。その為領内外からの入湯者が急速に増え三十数軒の宿屋が建てられ、藩も湯所役人を任命して幕末まで入湯者の監督や湯所の保全にあたった、当時の建物が今も残り、往時をしのばせている。現在、名物になっているが湯の山温泉の打たせ湯が人気を集めている。
・岩倉温泉。佐伯町津田。羅漢山東麓を流れる木野川沿いの静かな温泉で、旅館のほかに国民宿舎岩倉ロッジもあり健康的な雰囲気が行楽客の人気を集めている。
・羅漢温泉。佐伯町栗栖。小瀬川上流の羅漢峡にある山の湯で、杉林に囲まれ、閑静である。周辺には羅漢山・冠山などのハイキングコースガあり、ハイカーたちの基地として利用されている。付近には黒打峡があり、原生林と山の味覚を堪能することが出来る。平成八年には温泉のある休息所「道の駅・スーパー羅漢」がオープンした。
・宮浜温泉。大野町尾立・大野浦駅の西約一㌔の国道2号線沿いに、大野瀬戸を隔てて宮島を望む丘の上にある。閑静な環境のなかに、近代的で豪華な設備をもつホテル・旅館やペンションがあり、広島の離れ座敷として知られている。明るい雰囲気で家族連れ向き。国民宿舎宮浜グリーンロッジがあるほか、周辺にはスポーツレジャー施設もある。
・湯の川温泉。吉和村熊崎。村内熊崎にある鉱泉宿、標高六百㍍前後で夏でも涼しく避暑地としてよいところ。近所に瀬戸の滝がある。
・養老温泉。尾道市美ノ郷町、市域のほぼ中央部、藤井川沿いに和風の旅館が建っている、まだ歴史の浅い温泉だが静かな環境に恵まれ、多くの家族連れや保養客が訪れている。藤井川ではアユ・ハヤなどの川釣りも楽しめる
山 口 県
・湯田温泉。(ゆだ温泉)山口県山口市にある温泉。室町時代、山口は京都についで大都市のひとつとして栄えていた、この地を治めていた大内氏が京都になぞらえて作った町並みは美しく、中でも山口の中心街近くに自然の景観にもすぐれ豊富な湯が湧き出る湯田の地は魅力ある土地として広く知られていた。この温泉の開湯は古く約600年前といわれている。白狐伝説で知られるように、傷ついた白狐が毎夜浸かっていた池を掘ったところ湯がこんこんと沸き、薬師如来の金像があらわれた。「白狐の湯」として評判となり、山口の人が多く集まり入浴するようになりました。湯田温泉街は江戸末期尊皇攘夷の藩士や公家がこの地に滞在していた、また俳人中原中也の生誕の地であり、漂白の俳人として知られた種田山頭火も一時ここで過しこの温泉をこよなく愛したとされています。
・長門湯本温泉。(ながとゆもと温泉)山口県長門市にある温泉 。長門湯本温泉は今から600年前(1427年)大寧寺の「定庵禅師」が座禅のなか住吉大明神からのおつげによって発見された、山口県では最も古い歴史をもつ温泉と知られている。江戸時代には藩主も度々、湯冶に訪れています。浴場は二つに分かれ昔は上の礼湯(れいとう)を武士や僧侶、下の恩湯(おんとう)を一般の人が使っていました。大寧寺の墓苑には「住吉大明神の座禅石」が今に伝わり、共同浴場の裏山には「住吉神社」が建っている。音信川の面したまちのなかほどにある「恩湯」は芝居小屋を彷彿させる、懐かしが漂う建物。ここが「元湯」といわれ近くの「礼湯」とともに湯本温泉の泉源となっている。「恩湯」より、少し奥へ平成14年8月に新築された、バリアフリーの共同浴場です。足 湯ー東屋をもつ、庭園造りの広々とした足湯。おとずれ足湯ー散策で疲れた足をほどよく癒してくれる足湯。湯本温泉旅館協同組合サイトより
・荒木温泉・豊田町、周囲を山と田園に囲まれた閑静な保養向きの鉱泉。豊田県立自然公園の深勝の足場によく、初夏にはアユ釣りやホタル狩り、秋にはナシ狩りが楽しめる。一の俣温泉も立ち寄ってみよう。
・川棚温泉。湯田・俵山と並ぶ県の代表的温泉。寿永二年の発見と伝える古湯、時の領主平定盛が湯屋を建て、湯銭を定め、青竜権現を湯屋守護と祀ったという。その後荒廃する怡雲和尚が発掘したといい、この和尚を川棚温泉の開基としている。元禄六年には長府毛利綱元が湯治に訪れて以来、御殿湯が設けられ、湯庄屋・御茶屋を定め、以来代々長府毛利藩主が入湯した。背後に鬼ヶ島連山を負い、前方には響灘を望む保養向きの温泉。
・俵山温泉。延喜一六年の発見といわれる古い伝統をもつ温泉。昭和三十年に国民保養温泉の指定を受けた。温泉街は標高一五〇㍍の木屋川の渓谷にあり、長い歴史と伝統に培われた独特の温泉情緒にあふれている。。四月下旬、温泉まつりがある。周辺には多くの名所がある。
・三丘温泉。島田川沿い、三方を山に囲まれ田園情緒にあふれる温泉郷。周辺一帯は石城山県立自然公園に含まれており、昭和三六年に国民保養温泉の指定を受けた。明治初年ころまで、島田川を利用した木材の集散地として栄えたところで、当時川船の船頭たちがこの温泉で手足を温めていた。その後島田川の氾濫で泉源は不明になったが、昭和三〇年に、一羽の鶴が傷を癒しているところから泉源がわかり、現在の三丘温泉となったもので、鶴が傷を癒したことから温泉が発見されたという伝えは各地にあるが昭和になって昭和になって新しく発見されたというはきわめてめずらしい。
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